【感想文】春泥棒 / ヨルシカ

 もうずっとこう語られてきているかもしれないが、春泥棒(ヨルシカ)をききながら、をかし……と言わざるをえない。見事にこの詞に「桜」の字はない。花は桜、花見は観桜なのだ。恋が、病が、自殺がなくとも、歓喜し、惜しみ、叫び、愛をうたうことができるぞ、私たちは。ただ、花を見ればいい。

 詞と一見(一聞)アンバランスな思い切りのいいフレージングとメロディラインにはへんな卑屈さがなくて、そこに救われる気持ちもする。花はいつも桜でも、「君」はいつも恋人ではないんだ、参ったか。

 花見のイメージを素朴に広げれば、そこへ恋や病やの歴史が鎮座していることは明らかだ。花が咲き散るとは、うまれ生き死ぬことそのものともなる。みそひともじの春は結局のところ、しめっぽい。咲いても散っても歌人は泣く。脱線するが月光花(Janne Da Arc)を一言で表現しようとすると「だいたい平安貴族」みたいになる。

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(紀貫之)

散り逝くと知る 花はそれでも
強く生きてる 色鮮やかに
(月光花 / Janne Da Arc)


 いまだにこの世では花が散るたびにだれかが死ぬし、桜の下で邂逅したら恋をしなければならない。もう会えないあの人との思い出が語られる背景で、今日も桜が散っている。人が死なないと泣けないのかよ。などと嫌になった私たちを尻目に、それらの「春」からあざやかに逃げ切ってみせた春泥棒はやっぱりすてきだった。

たとえ くり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに
人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから
(永遠の嘘をついてくれ / 中島みゆき)



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