3仮設で生まれたダックス

宮城県七ヶ浜町・国際村避難所と ダックス一家のはなし

七ヶ浜町は、東北随一の大都市、仙台からクルマで2~30分の距離にありながら、海と山の豊かな自然を感じることができる、半島の小さな町です。その町名が表すとおり、 七つの浜からは豊かな海産物の恩恵を受けることができ、なかでも松島湾で養殖される海苔は、 古くから皇室御用達のブランド海苔として、町の発展に寄与してきました。

2011年3月11日、東北地方沖を震源とする巨大地震と、それによって引き起こされた大津波 は、東日本の沿岸部を襲い、甚大な被害に直面せざるを得ない状況となりました。七ヶ浜 町も、面積の4分の1が津波によって浸水し、人的にも、産業的にも深刻な状況に陥り、多くの町民は自宅での生活を諦め、避難を余儀なくされました。

震災直後、小さな七ヶ浜町には35箇所もの一時的な避難所が設けられました。当時は 生活 に必要なライフラインは断絶し、住民は暗く寒い避難所で、自家用車が残っている人々は車中で、不安な夜を重ねていました。ペットと共に避難している人々は、さらに周囲に気を遣って生活していました。

その後、二次避難所として35箇所から6箇所に、震災から約ひと月あまりが経った4月20日に、最終避難所として、七ヶ浜町中央公民館と七ヶ浜国際村の2箇所にまとめられ、仮設住宅ができるまでの数ヶ月間運営されました。

2つの避難所のうちのひとつ、七ヶ浜国際村は、コンサートホールや資料館などを擁する複 合施設で、バブル期に七ヶ浜町によって、県内最大の海水浴場である菖蒲田浜を眼下に見下 ろす高台に建設されました。休日になると、町が主催する様々なイベントが行われ、町内外から多くの人々で賑わい、仙台都市圏の文化受容拠点の一つとして、町の重要な役 割を担ってきました。

最終避難所として町から指定された当初、国際村の事務局長(ここでは『館長』ではなく『局長』の呼称が使われていたため、それにならいます)である星勝明さんは、避難住 民受け入れの重圧を感じる間もなく、貸ホール業から避難所の所長として転換しなければなりませんでした。

星局長自身の自宅は、辛くも津波の被害からは逃れましたが、ほんの数軒先の民家は壊 滅 しているという状況でした。局長は、辛うじて残った自宅には帰らず、家を失った40 0人近 い住民を収容する避難所の所長としての職責に追われることになります。

状況は切羽詰っていました。局長はまず、乳児や障害者を優先して部屋割りに取り掛かります。当時多くの避難所が設営された学校の体育館と違い、幸いにして、国際村の館内 には、プライバシーが保たれるスペースが数箇所ありましたので、まずはそうした方々に『安 心』を与えることを優先したのです。

局長は、避難所のリーダーを任せられたとき、当時の町長から言われた言葉を、いつも胸 の中で反芻していたといいます。その言葉とは、

『星さん、困難な状況ではあるけれども、ぜひ、町民に生きるチカラを持ってもらえるような運営をお願いします。』

というものでした。星局長が国際村の局長に就任する前は、現町長もその職にあったそう です。町長は、過 去に起こった阪神大震災の際、仮設住宅で孤独死する方がいたことを例に、七ヶ浜ではこ のようなことがあってはならない、だから困難な状況下でも、星さんの リーダーシップで みんなが助け合い、明日を元気に生きられるような避難所の運営を託し たのでした。星局 長は、国際村がたとえ避難所になったとしても、ここに来る人はすべて 『ゲスト』として 迎えよう、と心に決めたのでした。

星局長は、400人近い町民が国際村に避難が完了し、これから長い共同生活が始まる であろう、その朝一番の館内放送で、自己紹介と共に、地域で古くから親しまれていた民謡をひ と節、朗々と歌い上げたそうです。その歌声に、不安と絶望で打ちひしがれていた我々は 生きる勇気と希望を頂いた、とは当時避難所にいた方の言葉です。

局長にはもう一つ、迅速かつ重要な判断をしなければならないことがありました。それは、ペットの受け入れです。

大型トレーラーの運転手をしていた岩本さんは、3 月 11 日から遡ること 7 か月前、長野県松本市から、奥さんと、飼っていたミニチュアダックスフント2頭と共に、生まれ育っ た 七ヶ浜町内に帰り、暮らし始めました。海まで歩いて数十歩、風光明媚な浜を一望でき る 岩本家の立地は、みんなのお気に入りでした。

岩本さんは3月11日の地震当時、たまたま早く仕事が終わったので、自宅に戻る途中に近所のコンビニに立ち寄り、買い物をしていました。その時は、強い揺れには驚いたも のの、それほど動揺はしなかったといいます。しかし、自家用車の車載テレビで、大津波 が襲ってくるかもしれないとの情報を知るとすぐに自宅へもどり、犬のフードと水を自家 用車に積 み、奥さんと犬を乗せ高台へと移動しました。

地震発生から約45分後に七ヶ浜町に到達した 10 メートルを越す大津波は、岩本家の基礎部分だけを残し、集落もろとも奪っていきました。岩本一家は文字通り、なんとか命だ けを 確保したという状況でした。岩本さんはまず、多くの情報が得られるであろう町役場 に向 かいました。町役場は、一時的な避難所にはなっていましたが、犬と一緒に屋内に入 るこ とはできませんでした。仕方なく、役場の駐車場に自家用車を停め、犬たちと車内で 過ご すことになります。

岩本さんには、犬たちと暖房の効いた屋内で過ごさなければならない理由がありました。それは、当時 3 歳のメスのダックス、「るみ」が妊娠中で臨月を迎えており、いつ出産して もおかしくない状況にあったことです。まだまだ寒さが厳しい東北の 3 月。一日中、車内 の暖房を切ることは出来ませんので、エンジンはつけたままにする必要がありました。震 災直後で街は混乱を極め、スーパーで食料品を調達しようにも、長蛇の列に並んだ挙句に モヤシ1袋がやっと、という圧倒的な物資不足のなか、当然ガソリンも容易に手に入る状 況 ではありませんでした。

岩本さんは、当時勤めていた会社にガソリンを分けてくれるように頼んでみることにしました。岩本さんが勤めていた会社は、仙台港で輸出用の中古車を船積みすることを業と し ていましたが、この津波で港にあった500台のうち、300台が流され、使用不能と なって放 置されていました。会社は、岩本さんに快く、使用不能車に残っているガソリン を抜いて 持っていくことを許可してくれました。岩本さんは、同じ駐車場で車内生活を強 いられてい るペットと同伴避難している方々にも、会社と役場の駐車場を何往復もしてポ リタンクで ガソリンを分けて回りました。

もう1頭の13 歳になるダックス、「みる」は、自宅から慌てて持ってきていたフードと水のおかげで、なんとか健康を保っていましたが、妊娠中の「るみ」は、食欲はあるもの の 落ち着きがなく、不安定だったそうです。当の岩本さんと奥さんは、役場から支給され た バナナ 1 本と冷えた塩むすび一つが、一日の食料のすべてという過酷な状況でした。

このまま車内で「るみ」の出産を迎えることに不安を感じた岩本さんは、翌日から、町役場以外に町内に設置された避難所を片っ端から当たり、犬を受け入れてくれるところは な いか、くまなく聞いて回ろうと決めました。しかし、どこの避難所も『犬は外で』という回答をもらうのみで、岩本さん一家は失望と不安の中、駐車場で数日転々としながら過 ご さざるを得ませんでした。

3月15日、七ヶ浜国際村避難所に着いてすぐ 岩本さんは星局長に直談判しに行きました。こ れまで数十件の避難所でペットの受け入れを断られていたで、正直、『ダメでもともと』というヤケ気味の気持ちだったといいます。

『すぐに出産しそうな犬がいるんです!なんとか避難所の中に入れてもらえないだろう か。なんとか、なんとかお願いします!!僕らには子供もいない、犬は、家族なんです!』

必死で懇願するように訴えた岩本さんに対し、星局長はあっさりと、『いいですよ。犬も一緒にどうぞ。』と、落ち着いた口調で言いました。

あまりにもすんなりと受け入れてもらえたことに、岩本さんは、『逆に拍子抜けしたもんだよ』と、当時を振り返って言っています。

星局長がペットの受け入れを決断した理由はやはり、『受け入れた人々が、生きるチカラを持てるような運営を』と言った町長の言葉でした。

岩本さんの他にも、津波によって唯一人の家族である実母を亡くされ、飼っていた犬と一緒にこの避難所にやってきた女性など、数名がペットと共に国際村避難所に受け入れられました。

400 名近い避難者がひとつ屋根の下で暮らすことになりましたので、当然犬が好きな人ばかりではありません。吠える犬や噛みグセのある犬もいます。しかし幸いにして国際村に は数 部屋の会議室があり、他の避難者とある程度隔離できる構造でした。しかし、ペットと暮 らす方々だけで部屋を一つ与えるほどの余裕はありません。星局長は、避難者を十数 の 『班』に分け、そのなかで『班長』選出し、毎朝の班長ミーティングの場で様々な意見 をも ちより、最終判断を星局長が行うことにしました。

こうした合議制の運用で、避難所のルールが、徐々に決まっていくようになっていきま し た。食事の順番、テレビの時間、支給物資の仕分け、水の管理、トイレ、女性の洗髪、乳 幼児への対応、障害者やお年寄りへの配慮など、大小さまざまな事案が、この班長ミー ティングで決定され、ルール化されました。また、避難所が運営されていた数ヶ月の間に 5~6回の部屋割りと編成替えが行われ、避難者同士の交流や精神的なケアにも配慮され まし た。トップダウンでルールが指示され避難者はそれに従うという、一般的な避難所と は、 一線を画すものであったことが、この例でもわかります。

ペットと暮らす避難者の処遇についても、例外なく合議制によってそのルールが徐々に明確化されていきました。初めの頃は怯えて吠えることもあった犬たちですが、徐々に環 境 に慣れていき、無駄吠えも減っていったそうです。また、ペットを持たない他の避難者 の 方々からも、ペットがいる光景が、徐々に『当たり前のこと』として受け入れられたよ う です。

こうして国際村避難所に受け入れが決まった岩本さん一家は、星局長の好意で、暖房の効いた一室で、奥さんと 13 歳のおばあちゃんダックス、そして 3 歳の身重のダックスで暮らし始めます。

国際村避難所では、自衛隊を含むボランティアや、各地から送られてくる支援物資を積極的に受け入れるスタンスを取ります。避難所によっては、仕分けの手間などから支援物 資を断ったり、ボランティアの受け入れも慎重になっていたところもあったそうです。

国際村避難所には、様々な支援物資やボランティアさんたちが連日訪れ、その中には獣医師も含まれていました。岩本さんは、訪れていた獣医師の方に処方してもらった犬の産 後に与える薬やフード、ペットシーツなどを手に入れることができ、また知人を辿って、 隣町で 開院している動物病院に掛け合い、「るみ」の出産準備を進めることができました。

岩本さん一家が国際村避難所で暮らし始めてから一週間後の3月22日、岩本さんの奥さんが「るみ」を連れて動物病院に行き、6頭の子犬が産まれした。残念ながらそのうちの一頭は すぐに亡くなってしまいましたが、動物病院の先生によると、先天的な疾患があ ったとの ことです。他の5頭の子犬と、母の「るみ」は、その日のうちに元気に避難所へ 連れて帰る ことができました。残念ながら亡くなってしまった一頭は、岩本さんの手で、 星局長の許 可を得て手厚く国際村の敷地内へ葬られました。

産まれたばかりの5頭の子犬は、避難所内の癒しとなって受け入れられ、避難者はもちろん、訪れるボランティアさん達からも大変な人気者になったそうです。

出産後2ヶ月の時間を、子犬5頭と母の「るみ」、おばあちゃん犬の「みる」、合わせて 7 頭のダックスファミリーは、避難所で愛情をたっぷり受けながら賑やかに過ごします。 諸 問題の種と捕らわれがちな避難所のペット受け入れですが、国際村避難所に関して言え ば、星局長の方針である『生きるチカラを持てる避難所』の一端を、ペットが担ってくれ たと言っていいでしょう。

避難所で産まれ育った5頭の子犬のうち3頭は、岩本さんの実姉、知人のボランティアさん、地元七ヶ浜の駐在さんのもとへ、それぞれに引き取られていきました。

震災から一年が経った現在、国際村避難所は閉鎖され、震災で生活基盤を失った方々は、 町内の仮設住宅へ入居されています。また七ヶ浜町では、仮設住宅でのペット飼育が許可されているので、避難所ごとにペットのルールが違うということはなく、それぞれの家族 と一緒に暮らしています。

岩本さん一家に残った2頭の子犬も、オスの未来(みく)、メスの空(そら)とそれぞれ 名付けられ、元気に、スクスク育っています。岩本さんは、大型トレーラー運転手の職を辞め、現在は仮設住宅の敷地内に設置された商店街の一角を借り、ラーメン店を始めました。

岩本さんが国際村避難所に入って数日後、星局長が過労で3日間自宅療養しなければならないということがありました。星局長が身を粉にして、そして暖かい心配りをしながら 避難 所の運営にあたっていたことに深く感銘した岩本さんは、局長が倒れたのをきっかけにして

国際村避難所のスタッフとして活動することを決意します。以降、星局長の右腕となって、 あるときは酒の友として、避難所が閉鎖されるまでの数ヶ月間を過ごしました。 仮設住宅 でラーメン店を始めたのも、国際村での星局長がそうだったように、不自由な生 活を強いられている避難者に、少しでもホッとしてもらえる場所を作りたい、そして、いまは不自由な生活をしているけれど、みんなに希望を捨てないで欲しいとの想いからでした。屋号は 『夢麺(むーめん)』とし、独学で仕込みやスープの研究をし、現在では仮設住 宅以外から も、岩本さんのラーメン目当てに訪れるお客様も多くなってきたそうです。もちろん、国際 村の星局長も常連客のひとりとなっています。

七ヶ浜町では、現在のところ仮設住宅の入居期限は2年とされていますが、2年で仮設住宅を出ていけるだけの生活力を回復できる人は、ほんの僅かであることが予想されます。 実際、甚大な津波の被害を受けた七ヶ浜町の海抜の低い地域は、宅地としての再利用はできないことが決まっています。それまでそこで生活していた人々は、2束3文で土地を手放し、 高台への移転をするか、町が10年の期間をかけて計画している、5メートルの盛り土の上に造成する宅地を待たなくてはなりません。つまり、場合によっては仮設住宅で 10年近く生 活しなければならないことも、十分予想されるのが実情なのです。まだまだ 『復興』という作業は、始まったばかりといえます。

天災によって、住民が緊急避難を余儀なくされる状況になった場合、その運営は各避難所ごとに、ほぼ『丸投げ』されるのが実情です。学校の体育館、公民館、役所の施設、それぞれにルールを設けなければなりません。様々な人々が一つ屋根の下で生活しなければならないことは、不便で不自由なものです。しかし、だからといって禁止事項をどんどん増やしていったり、杓子定規で融通の利かない運営をするだけでは、生活基盤を失い、ただで さえ精神的なダメージを受けている被災者を、かえって追い詰めることになりかねま せん。もちろん、施設に即したある程度のルールは必要ではありますが、想定外の事態だ からこそ、星局長がポリシーとした、『生きるチカラを持たせる運営』というスタンスも、 後世 に伝えていくべき大切な事柄であると感じます。そしてそこには、『ペット』という存在も、十分寄与できる可能性を持っていると感じます。

                    文責:Do One Good 理事 村松歩

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