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vol.126/ ピンチの時こそ、ピンチ以外の愛に目を向ける

先日私の愛車がバッテリー切れを起こした。

このところ“器を大きくする試されごと”が多いと感じている今日この頃なのだが、このアクシデントもそのことの一つであった。幸い自宅の駐車場に停めていてエンジンがかからないことに気がつけたし、その後仕事があったわけでもなくその日買い物に行けなかっただけであったので“私ツイてる!”と不覚にも思ってしまった。

だがさて、どうするか。

今までバッテリーが上がった経験もなくその日は日曜日、どこの工場もお休みだ。そこから家族や周りの方々の怒涛の(?)連携プレーでことなきを得ることになる。電話連絡やら代車手配、その他諸々ぽぽぽぽーんと、あれよあれよと決まっていく。その際私は特になにもしていないっちゃしていない。
こんなことが起きるのか?
私の身に降りかかったことなのにも関わらず、私以外のところで解決していくその様を眺めては昔を思った。
なぜなら昔はどこか人にお願いすることで借りが増える、なんて考えるような人間だったのだ。借りが増えるということはいつか返さなきゃいけない、そんなの面倒だ、とまで考えていた頃もある。だから自分1人で解決した方が面倒なことが少なく済む、頼るなんて甚だしい、なんて具合にだ。


ただどうやらやっぱり私は、周りの人たちにとってもとっても恵まれているらしい。“らしい”というか、もうとっくに気がついていたのだがやっぱりそうらしいのだ。



自分がピンチの時、どれだけ周りの方々に助けられヘルプを受け入れてくれ救ってくれるか。そんな時こそ温かい人の愛に目を向ける必要があると思える人間に少しづつだがなってきた。
人はどう足掻いても1人では生きていけないのだから。
支えて支えてもらって、日常が日常として機能するのだ。
その前提があるかないかで大きく現実は変わってしまわないか?



バッテリーが上がっただけで日常が日常ではなくなるものだ。たかが買い物に出られなかっただけとは言え、私の住む地域は車社会。車がないと何もできない、仕事もできない、そんな地域。だからこそその後仕事がなく、買い物ができないだけとは言え内心焦ったのは確か。“私の大切な人たちに何か起こった時、すぐ駆けつけられないかもしれない”、とまで考えた。(ピンチの時、まず史上最低最悪な事柄を思い浮かべる癖が中々治らない。でもそれによってかなりリスク回避できていると自負している)
だからこそ周りで起こった怒涛の(?)連携プレーに私は心底救われたし、そこに愛を感じたのだ。



こんなに必死になってくれる人たちがいる。
ピンチの時助けてくれる人たちがいる。



常日頃感謝をしているし思ってはいても、体験をして実感できたからこそ湧き上がる何かがあった。こういう時こそ愛に目を向けるべきだと。

こういうことは突然であるから、こちらも前もって準備しておくことができない場合が多い。準備を欠かさずしていたって突然のことに混乱することだってあるし、なぜ今!?なんでこんな時に!?的なことが日々起こるものだ。だからそういう時こそ自分1人で解決しようなんて思わなくっていい。周りを頼っていい、お願いしてもいいし私を助けてほしいと伝えていい。そう思えるようになれた。昔より断然生きやすく、愛に目を向ける余裕も、愛を感じることも増えた。



ピンチの時こそ、ピンチ以外の愛に目を向ける
簡単で単純なようでとっても難しい。昔の私のような思考では、到底愛に目を向けることは先かもしれない。
けど、結構日常は愛で溢れていると意識することから是非始めてみませんか?
私も毎日そんなことの繰り返しです^^




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