やさしさを集めて、あなたの星座をつくる。
「月曜の朝、帰ってきて。」
11月1日、大阪。いつもよりだいぶ遅くに目を覚まし、知人の家の布団の中で足を擦り合わせた昼下がり。スマホを開くと母からのメッセージ。
「さっきじいちゃんが、亡くなった。」
父方の祖父が、息を引き取った。長いこと大腸がんと肺がんを患っていた。
身内が亡くなったのは、初めての経験だった。じいちゃんが死んだとはどういうことなのか、私にはよくわからなかった。いや、わかろうとしなかった。ただひとつ、もうじいちゃんには会えなかった。
最後に会ったのは亡くなる2週間前のことだった。
じいちゃん家の玄関に入ると、いつもどおり勢いよくこげ茶色のトイプードルが私を出迎える。そらはもう13歳になるおばあちゃんだ。
リビングではじいちゃんが「おお。」と私に声をかけ、ベッドから起き上がった。調子はどう?という私の問いかけに、まあまあと答えた。
幼いころ、私にとってじいちゃんは怖い人だった。
浴びるように酒を飲んでは、よくあーちゃん(私たちはおばあちゃんをそう呼ぶ)と喧嘩をしていた。煙草もよく吸う人だった。みんなが集まる正月の晴れの場でさえも、朝方からワンカップを片手に誰彼構わず言い合いをしていた。
幼稚園の頃、私がじいちゃん家に預けられていると、またいつも通り喧嘩が始まった。すぐさま言い合いはヒートアップし、じいちゃんはあーちゃんに、あつあつのカレーが入った鍋を勢いよく投げた。あーちゃんはもちろん横にいた私もカレーだらけになり、やけどを負った。おかしなことに、これがじいちゃんとの一番の思い出である。
そんな怖い人であったじいちゃんは、いつのまにか私の中で孤独の人になっていた。
7年前、肺がんが見つかって、じいちゃんは酒も煙草もぱたりとやめると、威勢のいいじいちゃんはいなくなった。気の強いあーちゃんが一方的にじいちゃんに怒声を放つようになり、じいちゃんは度々家を出た。
それでも夜になるとちゃんと家に戻ったのは、そらの存在があったからだと思う。じいちゃんには、そらしかいないようだった。そらもそうだと言わんばかりにいつもぴったりとくっついていた。
「俺が先死ぬか、そらが先死ぬか、どっちかな。」
数年前にじいちゃんがぽつりと吐いたその言葉がずっと忘れられなかった。
最後に会った日、私がたわいもない話を一方的にしたあと、じいちゃんはおもむろにベッドの下から缶をだした。
「昔のお金と、天皇陛下即位のメダル。俺が持っとったってしゃーないで持ってけ。」
綺麗に保存されたお金とメダルだった。
「ねえメルカリでいくらか見ていい?」「じいちゃん売ったらこれ10万らしいよ!」
完全に形見だった。じいちゃんがもうじきに死んでしまうみたいで、明るくとりつくろわないと泣いてしまいそうだった。
「私、名古屋に帰ってきたんだ。これからいっぱい会いに来るからね。」
これが私とじいちゃんとの最後の会話だった。この日から1週間が経った日、じいちゃんは家で倒れて緊急入院した。
お通夜の日、外はひどい雨だった。そして私は懸念していたことがひとつあった。
あーちゃんに会うことだ。認知症になって施設に入ったあーちゃんとは、もう2年も会っていなかった。久しぶりに会っても私だとは気づかないのではないかと思い、会うのが怖かった。
久々に見たあーちゃんは、髪が真っ白になっていて腰が随分と曲がっていた。私のことは視界に入っていないようだ。久しぶりに会った祖母への声のかけ方に戸惑い、そっと近くに座ってみる。
「おー誰かわからんかった。背が伸びたね。」
あーちゃんは私にそう声をかけた。喋り方も笑うとしわくちゃになる目も何も変わっていなかった。
「大きくなったよ。」
最後に会った時から背など変わってなかった。あーちゃんの私の記憶は小さい時で止まっているようだ。それでもよかった。小さい時でもいつだっていい。覚えてくれていたならそれでよかった。
「ひな、これ食うか?」
葬儀場で出たお弁当を箸で叩く。片隅のエビフライ。遊びに行くたびにたくさんのご馳走を作ってくれたあーちゃんを思い出した。名前を呼んでくれたことが心底嬉しかった。
お葬式の日、昨日とは打って変わった秋晴れの昼過ぎ、私たちは鶴を折っていた。
わざと下手くそに折った鶴の中に、じいちゃんへのメッセージとそらの絵をしたためた。
棺の中のじいちゃんは今までで一番綺麗だった。手で掴めそうなほど小さくなった顔。冷たくなった肌には均等にファンデーションが塗られていた。
棺の中にそっと鶴を入れる。
「一番汚い鶴がひなの鶴だからね。読んでね。」
あと1日じいちゃんが生き延びていたら、じいちゃんとあーちゃんは病室で会えていたらしい。2人はその日を待ち遠しくしていた。
半年ぶりの2人の再会は、棺の中と外で、あーちゃんは最後の喧嘩をじいちゃんにふっかけていた。
「あんたは、ほんと酒を飲み過ぎなんだよ。」
「パチンコにいって帰ってこんし。」
「あといちんち、あんたが生きとったらねえ。」
棺には、沢山の花、大好物の納豆汁、そらに似たぬいぐるみ、散歩の時によく被った帽子。
「いっぱい飲んどけよ、おやじ。」
父が震える手で口元にワンカップを流し込む。口に入るわけもなく、薄い唇を経て、首元まで垂れる。
その場にいる全員が泣いていた。
私たちはじいちゃんにたくさん振り回された。
じいちゃんは振り回すだけ振り回して、病気に勝てずに死んでしまった。
火葬から戻ってきたじいちゃんは、灰になっていた。放射線治療に耐え続けた骨が粉みたいだった。
「ねえそら、あーちゃん、じいちゃんが死んじゃったこと忘れちゃったんだって。」
そらは今日もじいちゃんの帽子を枕にして眠っている。
あーちゃんは何度もじいちゃんの死を忘れては、その死に直面している。
じいちゃんは孤独な人ではなかった。今私にぽっかりと空いた穴が物語るように、そらがじいちゃんの匂いを嗅いで安心するように、あーちゃんがじじいのとこに行かせてくれと叫ぶように、みんなの中にじいちゃんは確かにいた。
じいちゃんはあまりに不器用に愛を持て余していた。
遠くに行ったじいちゃんに、めいっぱいのやさしさを送りたい。そして、じいちゃんのやさしさと私たちのやさしさで大きな星座をつくろう。
「じいちゃん、今度はあーちゃんの作ってくれたカレー、一緒に食べようね。」
(追記)うちの家紋は何故か大根です。
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