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動物園を考える①【ゲスト:佐藤栄記さん(動物ジャーナリスト)】——動物たちの本来の生態、動物園の歴史

2023年下半期からはじめたシリーズ「動物問題連続座談会」。第3回目は、ドキュメンタリー映画『かわいそうな象を知っていますか』上映会を開催し、この映画の監督であり動物ジャーナリストである佐藤栄記さんをアフタートークにお呼びしました。レギュラーメンバーとともに、動物たちの生態と動物園の実際、動物園と教育との結びつき、植民地主義との類似性など、動物園のあり方についてとことん議論しています。

※動画の内容を一部、加筆・修正しています。

【ゲスト】(敬称略)
佐藤栄記:1962年生まれ。動物ジャーナリスト。1985年、日本テレビのコント番組のADとしてTVに業界に入り、1993年にはTBS『どうぶつ奇想天外!』のディレクターを務めるようになり、それから15年半にわたって世界中の動物たちの取材に奔走。2009年、TV業界に嫌気がさし、ディレクターを引退。現在は動物園のあり方について警鐘を鳴らす立場から活動している。

【レギュラーメンバー】
司会:深沢レナ(大学のハラスメントを看過しない会代表、詩人、ヴィーガン)
関優花(大学のハラスメントを看過しない会副代表、Be With Ayano Anzai代表、美術家、ノン・ヴィーガン)
生田武志(野宿者ネットワーク代表、文芸評論家、フレキシタリアン)
栗田隆子(フェミニスト、文筆家、「働く女性の全国センター」元代表、ノン・ヴィーガン)

* 写真提供はすべて佐藤栄記さん



動物園を撮るようになったきっかけ


——本日は上映した映画『かわいそうな象を知っていますか』の監督であり、動物ジャーナリストの佐藤栄記さんをゲストにお呼びしています。どうぞよろしくお願いいたします。

佐藤 わたしは「どうぶつ奇想天外!」というTBSの全国ネットの番組のディレクターをしていました。「どうぶつ奇想天外!」は15年半続いたんですけど、僕らがやっていたときには裏番組がNHKの大河ドラマだったんです。NHKの大河ドラマというのは、昔は化け物番組で、日本一視聴率の取れる番組でした。今は10数%くらいしかとれていないけれど、当時はだいたい20%くらい持っていっちゃうんです。そんな日本一の化け物番組と対峙しながら15年半続けられてきたというのは、「どうぶつ奇想天外!」という番組に力があったから。それはスタッフやディレクターやプロデューサーが天才だったわけではなく、当時から動物というのはキラーコンテンツだったんです。そんな長く続いた番組のディレクターをやっていました。

 当時は世界の動物園・水族館をいろいろ回りました。もちろん日本も。おもしろおかしく伝えていったわけですけれども、僕の心の中にいろんな違和感が残っていた。それから事情があってテレビの仕事を辞め、失業中に、デジタル教科書という、小学校で映像を見せながら授業をするので「いろんな動物が水を飲むシーンをとってくれ」という依頼がきて。いろんな動物といわれても大から小まで入れたほうがいいだろう、やっぱり陸上動物最大の動物といえば象だから、象の水飲むシーンも入れなきゃ、近くに象いないかな、と思ったら、あ、そっか、井の頭にいるんだ、って。2012年くらいにはじめて、はな子さんという象がいるというのを知って驚きましたね。

*井の頭に置かれたはな子さんの銅像。はな子さんは61年間飼育されていた。

 それで、はな子さんと対峙して、一日中見てたんですよ。なぜかというと、象というのは一日百リットル飲むんだけど、はな子さんはご高齢でほとんど水を飲まないんです。いつ飲んでくれるんだろう、と思ってずっと待ってたんです。時計を見ると、「あ、1分しか経ってない」と、時の長さを感じて。「ちょっと待てよ、僕の目の前にいる象さん、何年この狭いところにいるんだろう?」と。僕は一日で滅入っちゃった。それからなぜかその象に興味を持つようになって通い始めたんです。そうすると、今まで僕がディレクターをやっていたなかで感じていた違和感の点と点と点が、全部線になって、それが面になって、ズドーンと僕の方に倒れかかってきて、考え方が180度変わりました。「動物園って、“動物の園(その)”と書くけれど、“園”でもなんでもない。これは人間のエゴに過ぎないんだ」と気づいて、警鐘を鳴らす立場に変わっていった、という感じです。

——今、動物は「キラーコンテンツ」だという言葉もありましたが、「動物が好き」という人は多いと思うんです。でもその「好き」が、現実の動物の生きやすさの改善につながっているかというと、全くつながっていないのが現状かと思います。

 わたしはこの映画を見るのは3回目なんですけれども、見るたびに新しい発見があります。最初は檻を叩きつづけるチンパンジーにショックを受けたし、2回目は、象のテルさんが、砂浴びをしたくてもできないから、代わりに自分の糞を体に被っている姿にいたたまれなくなりました。3回目の今回は、もう全編悪夢みたいだな・・・と思いました。

——「かわいそうな象」の話は、絵本になっていて、日本中に知られていますが、それからわたしたち、何を学んで何を改善したんだろう?と。映画の中で佐藤監督が語られていたように、「はな子さん」という存在は今もまだたくさんいて、わたしたちはそれを、いまだに見て見ぬフリをしているだけではないのか、という気持ちになりました。



本来の生態とかけはなれた動物園


——わたしたちは前回・前々回と、主に畜産動物の問題について扱ったんですけれども、動物園の場合、長ければ何十年も同じところに入れられることになるので、その分苦しみが何十年も続くことになる、という問題があるかと思います。

 まず、そもそも、象の生態とくらべて、動物園におかれた象はどうなのか、ということを教えていただけますか?

佐藤 すべての動物に関してそこがまず出発点だと思います。いちばんはじめに伝えなくてはならないのは、象という本来は群れで暮らす動物が単独飼育されているということですね。それから餌についても、本来は一日24時間のうち20時間近くを餌を探しながら食べ歩くことに費やしありとあらゆる種類のものを選り好みして食べて達成感を得て生きる動物です。それが動物園で餌が一日一回だなんていうのは、あまりにも本来の生態的な欲求に応えていない。

 それからさらにいうと、温度・湿度・照度なども、現行の動物愛護法では、展示動物に関して規制がまったくないので動物園任せになっている。「まあなんとか生きてるからいいじゃないか」という程度の考え方の動物園も結構あって、本編でも出てきましたけど、カナダヤマアラシが、寒冷地帯の動物なのに、暑い中、凍った湯たんぽ一つで、「これでいいだろう」ということになっているような、動物の生態に合っていないところもあります。

真夏の炎天下、凍った湯たんぽに張り付いて離れないカナダヤマアラシ

 テレビで笑いになっている「カピバラの温泉」なんていうのも、カピバラというのは大湿地帯に生きる動物で、普段から暖かいところにいる動物ですから、温泉に入っちゃうわけです。そういうのも笑いにする前に、実はひどいことやっているんだということに気づいてほしいです。

 僕らもテレビをやっている頃は、そういった違和感に心の中で気づいていても、それを言うと水を挿すし、やっぱり動物園・水族館関係者と良好な関係を持たないと番組づくりというのはできないから叩けないわけですよね。行けば当然、仲良く仕事しちゃって、いろんな融通きかせて、いろんな撮影もさせてくれるので、手に手をとって、「じゃあこっちも動物園の宣伝になるような、動物が楽しんでいるような映像にしよう」という、暗黙の了解のうちにお互いが心のコンタクトをしてやってしまうわけです。それが番組をやめて、はじめてそのおかしさに気づいた。それはテレビではできないので、今はこういうふうに1人でやっているわけです。

 本来の動物の生態を考えるというのは、第一段階で必要なことだと思います。これは動物園の問題に限らず、ペットや、メダカ・金魚・カメといった生き物もふくめて、もう一度考えなおした方がいいと思いますね。

——わたしもヴィーガンになる前は、動物園や水族館に普通に行っていたんですけど、たしかに動物たちがぐるぐる同じところを回っている様子は見ていて、「なんでだろう」とか「大丈夫なのかな?」とは思うんですけど、当時は「常同行動」と言った言葉も知らないし、飼育員さんは専門家だと思っているから、「詳しい人がこうやって管理しているんだから、これが普通なのかな」と自分を納得させてしまっていたと思うんです。

 この映画の中では佐藤監督が解説を入れてくださっているので、自分の糞を被る象なんて野生ではありえないんだ、といったことも異常なこととして認識できるけど、解説がなかったら、いまだにわたしは分からなかっただろうと思います。動物園って「学びの場」と言われることも多いですけど、あのような野生とはかけ離れた動物たちの姿を見て、適切な解説を聞くこともなく、いったい何を学べたのだろう、と今は思います。



少しでも檻を広げることの意義——動物園へ意見を届ける


生田 さきほど深沢さんが「悪夢のよう」と言われたけど、実際そんな感じなんですよね。人間が他の動物にこんなことをやっていいのか、ということで大きなショックがありました。もちろん畜産動物の問題も深刻で、その点については我々はずっと話をしてきたんですけど、動物園は人間の身勝手があからさまに出ている感じがして、映像としてショッキングで、大きな意味のある映画だと思いました。

 はな子さんからはじまって、戦争との問題とリンクされていたじゃないですか。思うんですけど、動物たちにとっては人間の戦争ってあまり関係なくて、結局、動物たちにとっては戦争状態がずっと続いている感じだと思うんですね。3頭の動物たちは餓死させられたんですけど、ある意味もっとひどい形で長期的に虐待状態が続いている。人間は「戦争反対」「平和が大事」と言っているんだけど、動物たちの視点からすれば、「いやいや戦争も平和も関係なく、ずっとひどい状態が続いているだろう」ということを訴えているような気もします。

 あと映画の中で監督が、キバタンのケージを広げるように要求して、ちょっと広がったのが、「ああこんな変化があるんだ」と希望を持つところですよね。ああいう形で、動物園に対して観客がもっと声をあげれば、おそらく動物園もちょっとずつ変わっていくし、そういったことが必要なんだろうな、と思います。

羽も十分に広げられない檻に入れられたキバタン

 一方で、これは佐藤監督も当然わかった上でされていると思うんですけど、ケージが広がったといっても、結局そんなには広がらないので、動物たちにとって苦しいことには変わりがない。畜産動物については、トム・レーガンが、「我々はケージを広げろと要求するのではない。ケージをなくせというのだ」と言っていますけど、最終的にはそういった方向へいかなくてはいけないのではないか。でも、狭さに苦しんでいる動物たちについてはケージを広げるという活動はやっていかなければいけないし、その両面を見なくてはいけないんだろうな、と改めて思いました。

——キバタンの檻の話は、若干心の温まるエピソードですね。あれはまさにアニマルウェルフェアの実践を監督が見せてくれているように思いました。これはMercy For Animalsという団体のLeah Garcésさんがおっしゃっていたことですが、「アニマルウェルフェアとアニマルライツの関係は、死刑囚の人権について考えるのと似ている。死刑制度をなくす活動と同時に、今檻の中にいる死刑囚の環境をよりよくしていくことも同時にやらなくてはならない」という話をしていました。それと同様に、動物たちに対しても、たとえばキバタンをいますぐ解放することはできなくても、少しでも檻を広くして木を入れて生きやすい環境にすることも必要なので、その部分が映されていたのは学びになりました。



動物園における死亡事故


生田 これは動物問題に詳しい方は当然ご存知だと思うんですが、象と人間の関係は深刻で、上野動物園に最初にきた象は1880年(明治21年)なんですけど、オスとメスの二頭が来て、メスが死ぬと、残されたオスのほうが気性が荒くなって、飼育係や観客に怪我を負わせたので、動物園が象の4本の足に鎖を常時繋いだ状態にしました。

 その頃、その様子を見たスタンフォード大学の学者が、「わたしは世界を回ってきたが、このように残酷な扱いを受けている象を見たことがない」と東京市長宛に1905年に投書しています。この象は射殺も検討されたんですが、その後1932年まで、つまり50年近く、死亡するまで四本の足を鎖に繋がれたまま過ごしました。はな子については「世界一悲しい象」と言われたんですが、「世界一悲しい象」の問題は、1888年に上野にきた象からはじまって日本でずっと続いているんじゃないかと思うんです。

 はな子はもともと「人なつっこくてさみしがりや」と言われていますが、実は2人、人間を殺しています。1人は酔って象舎に迷い込んだ人、あと飼育員を1人、事故で殺している。象っておとぎ話に出てくるような優しい動物というより、あくまで野生動物なので、人間からみたら気性が荒くても当然なんですよね。そういった動物たちとどうやって付き合うかということは大きな問題だと思うんですが、結局閉じ込めて、場合によっては4本の足を常時繋いで監禁状態で虐待し、最終的に死なせてしまう。そういう事態が続いていて、動物と人間の関係の中で大きな問題だろう、と改めて思いました。



「教育」としての動物園


栗田 わたしは今日はまず、『かわいそうな象を知っていますか』という映画のタイトルから、「かわいそうな象って絵本のあれか」と思ったんだけど、その「かわいそうな象」が今もなお続いているということを、映画のなかで動いている彼ら/彼女らの姿を目にして、衝撃でした。わたしも井の頭公園って前に行ったことあるけれど、そこに動物園があることは知らなかったです。わたし自身が動物園にあまり関心がなくて。井の頭公園に行ったって動物園に行く人なんてどれくらいいたか。それなのに、動物園の理由づけのために動物たちが監禁されている、その映像を見た衝撃がありました。

 「動物園は情操教育のため」という話で、はっと思ったのが、『かわいそうなぞう』の話もそうなんですけど、わたしは動物園も水族館も学校の遠足でいってたんですよね。はじめていった動物園も水族館も学校だったんですよ。横浜の野毛山動物園と三浦の油壺マリンパーク(2021年閉館)。しかも油壺水族館に行く前は、三浦なので、マグロの市場に行ったりして。『かわいそうなぞう』も、動物園も、水族館も、マグロの市場も、全部学校で経験した、ということの重みを今更ながら感じるんですね。教育の場所に、動物園とか水族館とかとが入り込んじゃっていてそれで「動物園や水族館に行くことは悪いことではないんだ」というふうに教わってしまうわけですよね。

 監督も映画の中で、象舎の中の壁にトゲが生えているのを見て、「それを当たり前だと思った子どもがどう育つんだろう」と言っていたけど、自分もまさにそうやって育った子どもだったな、と思うんです。しかも、『かわいそうなぞう』と、動物園に行くということには、矛盾があるということが、この映画のような視点を知らないとわからない。『かわいそうなぞう』を読んで涙を流して、そのあとで平気で動物園に行く、みたいなことをやっていいとする教育をわたしたちは受けてきた、ということを知ったことへの衝撃もあるんですよね。

象舎の壁に打ち付けられた無数のトゲ

 象がずっと同じステップを踏んでいる常同行動を見ても、「踊ってるの?」と言う人がでちゃうというのも教育の延長というか、それがまさか人間でいう“拘禁反応”(※閉じ込められた人が、病気のような症状になってしまうこと)と同じものだ、ということに結びつかないように、回路を切ってしまう教育をうけている。そしてそれが今も続いているという問題は、動物の声を聞かないでいいように社会的に仕組まれている、教育のなかにも入り込んでいるんだ、と衝撃を受けました。



動物園の歴史——「展示する」という行為に潜む差別

 

栗田 そうすると改めて、「なんで展示するんだろう?」と、素朴な疑問にたどり着くわけですよね。何のために展示してるんだろう、と。

 今回、上映前に動物園の歴史について調べたら、英語には動物園を表す単語が2つあって、「“zoo”(ズー)」と「“menagerie”(メナジェリー)」という言葉がある。動物園の歴史って、もともと王侯貴族などが、虎とかライオンを自分の宮廷の中や庭で飼って、「わたしはこんな珍しい動物を飼う金がある」と、権威を見せびらかすために動物を使っていた。そういう私的なものとしての「“menagerie”(メナジェリー)」。テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』のタイトルには、「“menagerie”(メナジェリー)」が使われているんですよね。他方で「“zoo”(ズー)」となると、今度はロンドンとか近代のものになってきて、公的な施設——それこそ上野の動物園のように東京都が管理するといった話になっていく。 

 調べて衝撃的だったのが、植民地支配の歴史と動物園の歴史が絡んでいる、という視点で書いてあるサイトの資料がありました。やっぱり、植民地支配をしているヨーロッパなどの国々が動物園をつくっていっている。それにも衝撃を受けると同時に、「ああ、なるほど」と思う部分もあった。なんでかというと、明治に大阪の天王寺でひらかれた内国勧業博覧会では、アイヌの人・沖縄の人・朝鮮半島の人・中国の人を展示してたという歴史があった。「学術人類館」で人間を展示してたというんです。

 アイヌの人たちがそういう目に遭ってその問題を考える集まりがあるというのは知っていたんですけど、動物園はこれと地続きになっているのだな、と。もちろんそれぞれ個別の問題はあるけど、「展示する」という発想は、それだけでも下に見ているというか、〈見る—見られる〉側ってフェミニズムでもよく言いますけど、存在を見て楽しむという発想そのものがやっぱり差別的なものなんだ、しかもそれがそんな大昔でもない、近代といわれる明治時代に、自分より下とみなす存在を見て楽しむという発想があった。それは人間にも及んでいて、人間に対してはそれが問題だという視点は出てきているけど、動物に対しては、それがおかしいという発想が、まだ少なくとも日本には浸透しきっていないという現状なんだな、と感じました。ちょっとそれにゾクっとしたし、人間に対しておかしいと思っていたことを、動物に対してやっていいと思うことの根拠はいったいどこにあるのか、ということは本当に考えないといけないと考えさせられました。



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★ 現在、日本動物園水族館協会が、これからの動物園・水族館のためにアンケートを行っています。ぜひ、皆様の声を届けてみてください。

https://www.jaza.jp/storage/jaza-news/5uTG5kStWppb8G5HOJ2vwUIJjJ205Xv3quP8Ia02.pdf






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