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【発掘掌編】風呂場の男

 男は風呂場にいましたが、裸ではありませんでした。きっちりしたスーツを着た中年の男でした。しかしよく見ればそのスーツは一着一万五千円程であろう既製品で、つぶさに見れば飛び出した糸やほつれが目につくような出来の悪い品物でした。
 こんな安物を着ている人を家にあげたくないのに、と自分は思いました。
「何をなさっているのですか」と尋ねると、男はすいません、と頭を下げました。風呂用の椅子に座ったままです。不作法な人です。薄くなった頭頂部に汗がにじんでいました。髪にはところどころにフケがついていました。こんな汚い人の知り合いはいないな、と思いました。
 けれど不思議なのです。風呂場の窓には鍵がかかっておりますし、その上格子が嵌まっております。玄関の鍵は防犯のためいつもかけておりますし、誰も家に入れるはずがないのです。
 ははあ、この人は幽霊なのだな、と思いました。 
 私は持っていた、靴を洗うための柄つきのタワシを、「この、幽霊めっ」と言いながら男に投げつけました。タワシは当たりました。柄の部分が男の額にぶつかって、血が出ました。
 すいません、と男は再び頭を下げました。いなくなればいいのに、と思いました。だってこんな薄汚い奴に存在している価値なんて、世間一般としてないと思われるからです。
 どうしてやろうか、と考え、目を離した瞬間、男は立ちあがりかけ出して私の横を抜けて玄関に走り鍵を開けて逃げていきました。
 私は男に名前を聞くのを忘れていたことを思い出しました。

【終】

☆本記事は押し入れの中にしまってあったメモの山にあった、よくわからない小説です。
 近隣のメモの日時から見て2014年頃に書いたものかと思われますが、どういうつもりでこれを書いたのか、何を思って書いたのかは、一切、記憶にありません。おわり。

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