心かペニスか幻か─質問箱への回答

この文章は以下の質問に対する回答になります。文字数オーバーになってしまったのでこちらに書きました。
ルンむかは質問箱常に募集中です。ルンむかに対する個人攻撃から火種になりそうなネタまでなんでも送ってください。ひろゆきとは違って、自分が分かること、分からないことをしっかり峻別しながら、あなたの言葉に応答します。

ルンむかpeingより

いくつかパターンを考えましたので、よろしくお願いします。

一つ目は、起きていることのアホらしさについて考えてみる、というのはどうでしょうか。私は所謂風俗に行ったことが一度もないのでよくわからないんですが、なんか棒立ちのまま、ちんちんをなめてもらったり触ってもらったりするんですよね?そのあいだって、自分では何をやってるんですか?話しかけたりしてるんですかね?なんか情けなくならないですか?お金まで払って、気使ってもらって、やってることがちんちんをなんかよくわからない風に刺激して、変な白いのを出して終了って、なんかアホらしいと思います。そういう見方が出来るのではないかと思います。しかも、なんか仲良くなったりできないんですよね?永遠に心を開いてもらえないのに通い続けるってなんか空しいと考えてみるのはどうでしょうか。そもそもちんちんってめっちゃ汚いのに、別に自分で触って射精すればいいものをわざわざ人に触らせに行くってなんか失礼じゃないですか?あんまり気持ちよさとか変わんなくないすか?同じお金を払うなら、まだギャラ飲み?とかのほうがいいんじゃないですかね?

二つ目は、道義的責任に目覚めてみる、という方法です。あなたは、何万円か払って、おちんちんを触ってもらいに行くわけですけど、それは、世の中に今、まさに起きている戦争や、飢餓の問題、そしてまさにあなたが通う場所で起こっている貧困や格差の問題に対して、何らかのアクションが出来たかもしれないお金ですよね?自分は客としてお店の人を支えていると思っているならそれは勘違いでしょう。本当にお金を渡したいならお金だけを渡すのが一番いいはずですからね。とにかく、あなたが何かを買ったり、払ったりするということは、世の中で起きているすべてのことを無視して、自分のためにお金を使いたいです、という意志の表明であることを思い出してみるといいと思います。お金を使う人は、そこに道義的責任が生まれます。それを無視するかどうかは、あなた次第です。

でも、私はたぶん、あなたが悩んでいる本当の理由は、風俗通いを辞めたいけど辞められないというところにはないような気がします。僕の大好きなジジェクという面白おじさんが、その著書の中で、あるSFの短編を要約して引用しています。少し長いんですが、その箇所邦訳からとってきたので、読んでみてください。

主人公のウェイン氏は、掘立て小屋に独りで住んでいる謎の老人トムキンスに会いに行く。その小屋は街の寂れた一角にあり、荒れ果て、朽ちかけたがらくたが山積みされている。噂によると、トムキンスはなにか特別の薬を使って、人を別世界へ送ることができ、その世界では願いがなんでも叶うのだという。人はその報酬として、自分の持っている一番高価なものをトムキンスに渡さなければならない。ウェインはトムキンスの家を見つけ、トムキンスと話をする。ほとんどの客は満足して旅から帰ってきて、後になって騙されたと感じるようなことはない、とトムキンスは言う。だがウェインは決心がつかない。トムキンスは彼に、じっくり時間をかけて考えてから決めればいいと言う。家へ帰り着くまで、ウェインはずっとそのことを考えているが、妻と息子の待つ家に戻ると、家庭生活の楽しいことや些細な悩みに紛れて、トムキンスのことを忘れてしまう。彼はほとんど毎日のように、今日こそはトムキンス老人のところへ行って願いが叶うという体験をしようと決心するのだが、必ず用事ができてしまい、家庭のことに気をとられ、訪問を延期するはめになる。最初は妻といっしょにあるパーティに行かねばならなくなり、次には息子が学校で問題を起こす。夏になると、前に約束したとおりに息子を海に連れて行かねばならず、秋には秋でまたいろいろな雑事が生じる。そんなふうに、決断を下せないまま、まる一年が過ぎる。それでもウェインは頭の隅で、遅かれ早かれ自分はトムキンスのもとを訪れるだろうと考えている。さらに時が経ち...突然、彼はトムキンスの掘立て小屋で目を覚ます。そばにいたトムキンスが優しい声をかける。「気分はどうだね。満足したかい」。何がなんだかわからないまま、ウェインはぼそぼそと「え、ええ、もちろんです」と言い、自分が持っていた全財産(錆びたナイフ、古い缶詰、その他こまごまとしたがらくた)をトムキンスに渡し、夜のジャガイモの配給に遅れないようにと、がらくたの山の合間を縫って、あわててトムキンスの家を後にする。彼は日がどっぷり暮れる前に地下の核シェルターにたどり着く。夜になるとネズミたちの群れが穴から出てきて、核戦争による廃墟を、我が物顔で暴れまわるのだ。
(スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ』より引用)

この話の一つのミソはもちろん、本当の地球は核戦争で荒廃しているということが隠されいているところにありますが、この話は人間の欲望の性質をよくとらえたものだとジジェクは言います。つまり、欲望につきものの探索や迷いであるとわれわれが思い込んでいるものは、じつはすでに欲望の実現そのものなんだというのです。

これをあなたの例に沿って考えてみましょう。あなたは確かに風俗通いを辞めたいと思っている。それを辞めれば、かっこいい服を買ったり、美味しいものをたべたり、どんなにすばらしい生活が送れるだろう...とあなたは思っている。思っているが、そんな日はこない。いつもその一歩手前で、お金を全部風俗に使ってしまって、余裕が無いから。そうして”すばらしい生活”はあなたの触れられないところに置かれ、無限に延期されてゆきます。あなたはそのなかでこそ、欲望を満たしているのです。もっと言うと、風俗でちんちんを触ってもらう体験が、あなたの言うところの”ほかのいろんなことにお金が使える、すばらしい生活”の代替物にもなっているような気がします。おしゃれして、お出かけして、キラキラした生活をおくる─理想の恋人の隣で。というのが、あなたが本当に思い描いている、理想の生活なんじゃないでしょうか。そのあまりにも矮小な劣化版が、あなたの風俗通いです。あなたはそんな劣化版それ単体では、本当なら少しも満足などできないはずですが、その劣化版が、あなたの「真の幸福な生活」を邪魔している、阻害している、と考えることで、途端にそのみずぼらしい劣化版が、あなたの心が欲してやまない娯楽へと変化するわけですね。

知らんけど。全部適当なので全然違ってたら全部無視してください。反論とかも待ってます。でもまぁ本当に悩んでいるならカウンセリングとか受けるのが一番いいと思います。本人の意思にそぐわない形で性的欲求を満たすことを繰り返すのは性依存症という病気なんじゃないでしょうか。診てもらってください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?