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イナさんとスパイスカレー

定年間近のイナさんが、「うまいカレー食い行くか?」と声をかけてきた。

イナさんは気難しいパワハラクソオヤジとして知られていたが、私のことは結構可愛がってくれていた。
タクシーの移動中に手を握ってきたり、膝に乗れと言ってきたり、息を吸うようにセクハラもしてきたけど。

「お前の仕事は代えがきくが、俺はそうじゃない。持ち場を離れてでも俺をサポートしろ」

こう言われたときは頭に血が上り、その足で上司に訴えもした(まあまあ、となだめられて終わった)。
私は素朴な見た目に反して負けん気が強く、カチンと来たら「っせえな!」と声に出る。おん?の顔をしながら。大阪と北関東のDNAを実感する瞬間だ。

ただ、そんな生意気さをむき出しにすればするほど、なぜかイナさんは優しく接してくれるようになった。自分だって現場で「うるせえばかやろう!」と怒鳴ってるくせに、私には「あんまり気を短くして揉めないほうがいいぞ」と諭すほどに。

イナさんの私生活はヴェールに包まれていた。
一人娘が昏睡状態のまま長年入院しているという噂があったくらいで、同年代の社員でもその素顔を知る人はいない。

そんなイナさんが夕食に誘ってくれた。
変わり者の一匹狼が、少し心を開いているのだ。好奇心には抗えない。行くに決まってる。

向かったのは、スパイスカレーの老舗店だった(私はその時初めてだったが、カレー好きは誰もが知る有名店である)。
そしてイナさんと同じ「チキン+野菜」を頼んだ。
注文を受けてから作るとのことで、10分程度の待ち時間が思ったより長く感じられた。店員がカレーを運んでくるたびに「ウチらのか?」と、そわそわした。幾度目かのそわそわを経て、店員が隣のサラリーマンの分を運んできた、そのときだった。

「お待たせしまし…」

店員が手を滑らせ、カレーをおもっきしこぼした。自分側ではなく、客側に。皿は空っぽの状態で裏返しになり、リーマンの白いシャツとグレーのスーツはカレーまみれになった。

「ああああ! 申し訳ありません!!」

あろうことか、店員はテーブルにこぼしたカレーを必死に回収し出した。店内には尋常じゃない緊迫感が生まれている。

違う違うそうじゃない!
怒鳴るのか? どう出るんだ?

声なき声がはっきりと聞こえてくる。
しかし、周囲の注目を一心に集めたリーマンはほとんど怒らなかった。冷たい目で店員を見て、「おしぼりちょうだい」とだけ言った。あつあつのカレーを浴びているのに冷静だ。店員は続く。

「すぐ新しいのつくりますんで!」

イナさんと私は顔を見合わせ、ほどなく届いた自分たちのカレーを無言で食べた。店の外に出てからイナさんがシーシーしながら言った。

「最高におもしれえな!!!」

イナさんの話は大体が自慢話でつまらなかったけれど、笑いのセンスだけは同じだった。

それから数年後、イナさんは会社を去った。
去り際もひと揉めふた揉めあったせいか、イナさんは誰からの電話も取らないと聞いた。気難しさは健在らしい。ただ2人で目撃したカレーリーマンの話だけは、いまでも笑ってくれると信じたい。



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