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1.2 今統一教会・カルト問題を問うことの社会的意味

統一教会問題に再び注目が集まって連日メディアが取り上げるようになった一方で、

「統一教会問題、カルト問題は一時的な喧騒に過ぎない」
「統一教会の被害者は少数である」
「大半の一般市民にとって、カルトは縁遠い存在」

こうした言説を目にすることも増えています。
かつて私自身も、統一教会問題はマイナーな社会問題であり、“個人的な事柄”として小さく捉え、コミットメントをやめたという経緯があります。

この項目では、改めて今、統一教会・カルト問題を扱うことの(普遍的な)社会的意味を明確にします。

統一教会問題を扱うことは「犯人の思う壺」なのか?

安倍晋三元総理の銃撃事件をきっかけとして、統一教会の問題を扱うのは、犯人である山上徹也個人の思う壺である、したがって統一教会問題を大きく扱うべきではない、という論があります。

この論について、以下、順番に反論していきます。

「あの犯人は”俺”だったかもしれない」という犯罪

このような社会的インパクトの大きな事件を見るとき、その個人の背後に、同じ背景をもった多数の予備軍が潜在していることを考慮するべきです。

それらの潜在的な予備軍の人から見たとき、「もしかしたらこの事件を起こしていたのは、自分だったかもしれない」という感想を持つものです。

例えば、最近死刑が執行された、2008年秋葉原通り魔事件の加藤智大被告。
このときにも加藤被告の非正規職員としての境遇や、非モテという属性に共感する多くの予備軍の存在がありました。
なかには「自分の代わりに加藤がやってくれた」とまで言及する者もいました。

もちろん、かの犯罪は無関係の市民に対する卑劣なもので、到底許しがたいものではあります。
一方で、一定の強い共感を示す者たちが少なからず存在したのも事実です。

同じ背景を抱えて苦しんでいた多くの人々の恨みが、マグマのように、ユングのいうところのひとつの大きな集合意識として社会の底に溜まっており、それがたまたま条件・タイミングの一致する個人から噴出する、ということがある。

そのような犯罪が起きたとき、犯人の意図とは別に、その犯罪とその背景に関する事柄が、事件後、猛烈な勢いを持って、社会的文脈を伴って多数の人々を巻き込んで一気に社会化する、ということが起きます。

今回の安倍晋三元総理の銃撃事件もそのような犯罪のひとつと捉えるべきでしょう。

「山上」以外に代替手段を持たなかった我々の社会

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