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自然崇拝と日本一汚い川

昨日書いていた「自然崇拝」についての記事、かなりの熱量で書き上げたのでなかなかいい文が出来上がったのですが、色々あって全部消えてしまいましてね。
もう一回書きますが、多分昨日ほどの文は書けないと思います。
ぜひご意見ご感想をください。
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自然崇拝、皆様はご存知でしょうか?


身近な例で言うと、神社にあるぶっとい木。(というか日本神道が自然崇拝発祥だったか、有識者の方また教えてください…)
大きな木を神格化し、しめ縄をして祀る、
あれも自然崇拝といえます。
そういう木とか、山とか太陽とか雷とかの自然のものを崇拝するのを自然崇拝というのです。動植物などの人間以外のものなら自然崇拝に入るという説もあるようですし(お稲荷さんはキツネだしそういうことなのかな?)、その対象は様々ですが
ここを深掘りするほど深い知識はないのでこのへんで。



で、これと日本一汚い川の関係性について。

日本一汚い川は「大和川」といいます。
奈良県から大阪府まで流れている川で、今はわかりませんが当時は“日本一汚い川”の異名を持っていました。
そんな大和川は、僕の暮らしていた地域から自転車で15〜20分ほどのところにありました。

初めて大和川に行ったのは、小学3年生のとき。
僕は非常に真面目な子どもでしたが、
ただひとつだけ破っていた校則があります。
「校区外に子どもだけで行ってはいけない」です。


大和川は「校区外」でした。その学校なりの法律で決められた、子どもだけで行ってはいけない地域です。(というより、決められたエリアから出るな、が表現としては正しいか)

でも僕から見た校区外は魅力の塊でした。暇なときはとにかく自転車に乗って何時間もぐるぐる回っていたような子どもだったので、僕はある日ついに好奇心を原動力に、校区を出たのです。
そのときに行った場所が、日本一汚い川である大和川でした。



そこから僕はタガが外れたように校区外自転車旅にのめり込みますが、同時に「大和川に行くこと」にもハマります。
住宅と工場で埋め尽くされた地域に住んでいたので、当時の僕から見た大和川は1番近くの大自然でした。
これをみんなにも見てもらいたいと思い、よく友達を連れて行ったもんです。


中学生になっても大和川へ行く遊びはやめず、新しい友達もできたことでより楽しくなりました。さらに今までは堤防までの遊び方でしたが、このぐらいの時期から河原まで下りるようになり、新しい楽しみ方も増え、一時期は毎週大和川に行っていたぐらいです。

石を投げたり、旗を立てたり、財布を拾ったり、新発見をメモしたり、歌を歌ったり、深い話をしたり。
大和川は僕たちにとってかけがえのない場所になっていきました。

この時期ぐらいから、我々の大和川に対する見方が変わってきます。


大和川が、神聖な地域というか、パワースポットというか、見えない力が働く不思議な場所のように思えてきたのです。誰が言い出すでもなく、自然と、です。

「大和川に行ったから○○」と出来事などの原因が大和川にあると話す者が出てきたり、
「今日は大和川に行かない方がいい気がする」といって誘いを断る者も出てきたり(それを聞いた我々も、それなら仕方ない、とか言って納得するという状況)、
「大和流し」と称して思い出の物を流す者も出てきたり(出来事や思いをあえて大和川で話すことで清算するという意味でも使われる)、
夜な夜な1人で大和川に行って気分を落ち着かせる者も出てきたり、
かく言う僕も夜22時ごろに大和川に1人で行って喉が枯れるほど叫んで帰ったこともあります。

思春期を迎えた我々の独特の“尖りっぷり”も相まって、大和川はそういう意味で特別な場所になっていきました。


今でも僕とその当時よく一緒に行っていた1人は、毎年お正月の夕方に「初詣」と称して大和川に行き、「初日の入」を見るという客観的に見たら理解し難いような行事をしています。

大和川がこうなってしまった理由が、上述の自然崇拝の考え方にあるのかなと僕は思ったわけです。


人間は誰しも、いわゆる「神」的な存在に救いを求めたがります。不安や苦労なんかがその人の心身を襲っているとき、何かを信仰したりしたくなるのです。具体的にその対象がハッキリ存在する特定の宗教に入っていなくても、「神様どうかお願いします…」と心の中で唱えたことがない人はまずいないでしょう。


僕たちの中で大和川がそういう対象に、知らず知らずのうちになってしまったのだと思います。いい意味でも悪い意味でも。


また大和川は「ずっと変わらない存在」です。


大和川にこれだけ行っていると、その周辺にある場所にも愛着が湧いてきます。
天国みたいな公園といつもいる黒猫、古い変な名前のラブホテル、ボロボロの小さなバイク屋、その前にあるコカコーラの自販機…
数えればキリがありません。

天国公園は中身が変わりました、黒猫はもういません。
ラブホも建物の半分がリニューアルされました。
バイク屋とコカコーラの自販機はなくなりました。

一方、大和川は…
ずーっと変わらず流れています。奈良の山から大阪湾に向かって、これまでも、これからも。


自然崇拝の根本的な部分もここにあるのかもしれません。
木も山も太陽も、我々が生まれる前から変わらずそこにあるわけですから。(ハッキリと崇拝する対象のある宗教でも、その対象に実体がなかったり、永遠に変わらず消えることもない存在だと信じることによって、信仰するに至るのかもしれませんね)

人間によって作られたものは、全てに終わりがあります。人間自体もいつかこの世から消えてしまいますし。
だからこそ、自分とは違う永遠の存在に救いを求めてしまう

大和川は、確かに目の前に存在しているのにその姿をはるか昔から変えることなくそこに在る…
と、そこまで意識をしていたわけではありませんが、これらに場所としての「愛着」なんかが重なって、聖地のような特別な存在に仕上げてしまったのかも知れません。


まあ、川に行くだけのことなので自分にも他人にも害はないですし、何より10代中盤に行きまくっていたことが1番の原因かもしれませんけどね。

長ったるい話でしたが、こういうのを悪用して人を騙したりする輩がいますので、その信じやすい性格から誰か特定の人物を信仰してしまいがちな人は気をつけてください。という注意喚起ってことにさせてください。
そいつもあなたと同じようにいつか終わりが来るし、日々不安でいっぱいだし、「神様…」って全然言っちゃってると思います。

まとめ
・どんな人間も不安、あなただけではない
・信仰の対象は「永遠に変わらないもの」、理由は、人間は変わるし終わりがあるから
・特定の誰かを崇めないこと、身近にそういう存在がいるなら注意


皆さんにも、特別な場所や存在はありますか?


追記
元々書きたかったことを見失ったので思いついた文を全て書いたら死ぬほど長くなりました。
あと自然崇拝に人間以外の動植物も含まれるなら終わりあるやんけ、とか思いました。
その程度の文しか書けず不甲斐ない。
最近は大和川は深い思い出の地のひとつとして落ち着きましたが、毎日行ける生活になったとしても頻繁に行くもんではないかなとは思っています。
「初日の入」もちょっとジョーク的な部分はありますが、行く日を事前に固定しておくことで「頻繁に行くもんではない」場所として無意識的に脳に刷り込ませているのかもしれません。
もうすぐ正月なので楽しみです。


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