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ヒプノセラピー忘備録1回目①

第1回目 1/28(土)くもり
天気のせいか、心の体もだる重い感じ
また、事前にリモートで話してはいるものの、セラピストさんと初対面ということへの緊張やら、久々のヒプノセラピーへの緊張やらで、
やや重い足取りでセッションルームへと向かう。

今までどういった幼少期や思春期を送ったかを、セラピストさんが提示した方法で大体伝え終えたあと
ヒプノセラピーを始めてもらいました。

自分が話しているのか、よくわからないような、勝手に自分が話しているような不思議な感覚は、前回ヒプノセラピーを受けた時と同じでした。

潜在意識の中で私は
「見捨てられてしまうかもしれない」という大きな不安の中にいて、
「人に頼らずに一人で生きていかなければならない」
「人に甘えてはいけない」
と強く強く自分を制限し、縛り付けていました。

なぜ私はそんな思いにとらわれたのか。その原因となった場面に行ってみることになりました。

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私は、もうじき16歳の私と、母が、実家で言い合っている場面に立っていました。
これは、過去に実際に在ったことです。

当時、東京に住んでいた4つ上の姉が、抽選でとある電子機器を当てた。
取り付け費がかかるけれど、それを家に設置したらどうかという電話があった日の夜。
設置してほしい私は、母にお願いするけれど、お金の無駄だといって断られてしまった。

高校での新生活が始まったばかりの春で、
同居する祖父は入学祝に腕時計を買ってくれたのに、
両親からはお祝いはなく、お祝いとして取り付け費を払ってほしいと言った。
(この部分は、私の記憶にはなくセラピーの中に出てきただけで、本当にあったことかわからずです)

でも、それも断られた。
高校入学にあたって15歳の私の心の中には、両親に対する大きな罪悪感が渦巻いていた。
「高校の制服はおさがりがないから、一式買わせてしまった。制服代や教科書代にお金がかかったんだろう。」
お祝いをせがんで、断られたことで、その負い目に感じている部分を、改めて責められてしまった気持になり、とても苦しくなった。
若く、気持ちをうまく言葉にできない私は、攻撃的な言葉を母に向けた。
母と口論になり、エスカレートしていった。
「なんでうちはこんなに貧乏なんだ。小学校の時、おさがりのランドセルが恥ずかしかった。だれも、産んでくれなんて頼んでない。」
その言葉に母はより感情的になり、私の頬を平手打ちした。
ショックで呆然とし、頬はジンジンと痛む中、母は、2階の両親の部屋から茶封筒を持ってくると私の前に叩きつけた。
茶封筒の中には一万円札がたくさん入っていた。
「これが我が家の全財産だ。そんなにうちが嫌なら、これを持って、出ていきなさい」と母が怒鳴った。

その夜、普段ほとんどお酒を飲まない母がやけ酒し寝室で泣く声と、
私の味方をしてくれなかった父が、母を宥める声が二階から聞こえる中
私はリストカットをして、
左手首から流れ落ちる真っ赤な血液だけが
私の心に安心を与えてくれた。
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この出来事は、15歳の私の心に、とてつもなく大きな衝撃を残して、
この日以降、
私は常に「見捨てられる不安」に怯えていたようでした。
また、幾度となく、一人暮らしの孤独に耐えられず死のうとしながらも、「自分の稼ぎだけで一人で生きていく」ということを辞めなかった理由も、
この時に、「人に頼って生きていってはいけないんだ」という
絶対に抗えない制限を、自分の中に設けてしまったのだと思いました。

セラピストさんの指示で、32歳の私は、15歳の傷ついた私をぎゅっと抱きしめました。15歳の私の手首は血だらけでしたが、ぎゅっと抱きしめると、はじめは硬かった体が、徐々にほどけていき、彼女は泣きだしました。
私は15歳の私の黒い髪を撫でました。彼女が落ち着くまで、無言でそれを続けました。彼女は何もしゃべらず、ただ静かに泣いていました。冷たく冷えていた彼女の体が、やがて少しずつ温まっていきました。

その後、母の気持ちになってみる、というセラピストさんの指示には
なんだか逃げ出したくなるくらいの抵抗があり、だけど、抗うこともできず、私は、私の潜在意識の中の、母の心の中を探っていきました。

15歳の私が、潜在意識の中の母と対話をし、
その場所で設けてしまった制限を解除して
その場面でのセラピーは終了しました。

続きます。

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