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「ポゴ」

 左耳はカメに噛みつかれていた。拳ほどの大きさで、それなりに重たい。耳たぶはちぎれず、カメが口を離すこともない。絶妙なバランスで均衡が保たれている。甲羅は深緑色で、端のほうは茶色く濁る。噛まれている実感はないけれど、力任せに取ろうとするとひどく痛む。

 早朝、わたしは大浴場の脱衣所にいた。鏡に映る違和感に目を留める。左耳がひどく腫れていると思い、短い声をあげた。カメの存在に気づいて、もう一度叫んだ。今度は長めで劇的な声の調子だった。カメはぶらりぶらりと揺れる。グロテスクな異国のイヤリングみたいだ。ここ数年まともにアクセサリーを身に着けていなかったからか、カメだとわかったあとも角度を変えて鏡に映る様子を眺める。

 朝湯を諦め、部屋に引き返す途中で決意は固まっていた。商店街の福引で当たった「森林浴と湯めぐりツアー」を離脱する。添乗員にまともな説明をしなかったし、相手の質問も受け流した。自腹で帰るから、と訴えるときもカメはぶら下がったままだった。手で覆っていたけれど、きっとはみ出していたに違いない。
 不幸中の幸いか、ツアーには一人で参加していた。夫が出発前夜に高熱を出したためだ。キャンセルしようと思ったけれど、寝ているだけだからゆっくりしてくれば、と身体を震わせながら夫は送り出してくれた。それが旅程半ばでの帰宅となった。

 夫はまだ臥せっていた。冷えた天然水を夫の枕元に置き、事情を説明した。夫はたいした反応を見せない。ペットボトルに手を伸ばすこともなく、うつろな目でわたしとカメを見ていた。
 憂鬱さは増していく。帰りの電車でもずっとカメの存在に気を揉んでいた。羞恥心が強烈によみがえる。ドレッサーに映る自分の姿に嫌気がさす。本当なら、まだまだ炭酸水素塩泉を楽しんでいるはずだった。
 そのうちにカメが餌を求めて口を離すことを期待していたのだけれど、状況は変わらない。恩返しされるような覚えもないものな、とよくわからないことを思い、それでまた気が滅入る。
 わたしはトイレに閉じこもった。便座のパネルをいじって、ほどよい温かさに調整した。近隣の住人たちの生活音や車が走る様子が聞こえてくる。下校中の小学生のおしゃべりも耳にする。肉の焼けるような匂いも漂ってきた。
 下着をおろして何度か用を足した。カメはときどき、短い手足を掻くように小さく動かす。左耳はほとんど何も感じない。重みにも慣れてきた。いつまで経っても空腹を感じなかった。

 三度、ノックの音が響いた。夫のくぐもった声がする。一旦トイレから出て入れ替わる。ドア越しに夫の様子を尋ねる。身体も頭もだいぶ軽くなったらしい。
 出てきた夫の額に手を伸ばす。汗でじっとりしているけれど、熱が落ち着いたことがわかる。わたしはまたトイレにこもる。夫の不安げな声がドアの向こうから聞こえる。カメがいやで外に出たくないのだ、と簡潔に答える。温便座がオフになっている。それでも熱の余韻を感じる。
 越してきた当初からずっと狭いと思っていたけれど、今はトイレの中がやけに落ち着く。短い眠りを何度かくり返す。時間の流れがよくわからなくなってくる。

 再び、ドアがノックされた。トイレから出ると、夫は黄色いホッピングを抱えている。これで跳ねたら取れるのではないか、とのことだ。わざわざ車で調達してきたらしい。ホッピングへの腕の回し方が独特で、愛情が満ち溢れているように見えた。
「こんな種類の亀、見たことないな」
 裏の駐車スペースに移動する途中、夫がざらついた声で言った。わたしは周囲の様子をうかがい、おもむろに跳ねる。はじめから不安定で、ぐらつきが治まっても左へ左へと身体ごと回ってしまう。夫はわあ、とか、うお、とか声をあげる。カメが揺れる。手足をひっこめて、頭もほとんど埋もれている。わたしの耳たぶも半分は甲羅の中だ。跳ねるたびに硬いところが頬や顎に強く当たる。

 降りるタイミングを失って、わたしは尚も飛び続ける。甲羅の衝撃にも慣れてきた。跳ねるのと痛みがワンセットになっている。ホッピングの中心部の棒にはホームセンターの支払い済みシールが貼ってある。グリップのぎざぎざしたところが手に食いこむ。
 そのうちに夫は押し黙り、自らの手を額に当てる。わたしは跳ねながら声をかける。少し間を空けたあと、熱が出てきたみたいだ、と夫は口にする。それから続けて、あの子がいてくれたら、と泣き始めた。
 カメがコンクリートの上に落ちる。かつん、と乾いた音が反響する。夫が寝こみ始めてからずっと、病室で苦しむ子供の姿を一度も思い出さなかったことに今さら気づく。わたしは跳躍を止められない。少しずつ回りながら、あやうくカメを踏みつけそうになる。夫はゆらめきながら静かに涙を流す。
 何かを強く言わなくては、と思うけれど、全身もその内側も激しく震えて、まともな声にならない。左耳だけはやけに爽快だ。足元で軋むバネの音が鳴る。遠い空の一部が鈍色に染まる。カメはやがて甲羅から手足と顔を伸ばし、ゆっくりと這い始める。泣く夫と跳ねるわたしから、遅々たる歩みで離れていく。


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