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「チキンリンチ」

 妻が振り回す鶏の人形は娘のものだった。十年以上前、めぐみのとりファームに訪れたときの土産で、わが家にずっと残っていた。
 
 暴力は朝から始まる。ビニール樹脂製の人形は簡単に壊れない。つぇーつぇー鳴くだけだ。妻は鶏の両脚を握り、何度も床に強く打ちつける。執拗に殴る。でたらめなフォームだが、リズムは規則正しい。衝撃が加わる度、鶏は声をあげる。ぶつかる箇所によって音の響きや長さが変わる。最後に力いっぱい投げつけ、駆け寄り、踏みにじる。ずええ。鶏がわめく。
 おはよう。私の声はかすれている。行為を咎めはしない。そんなに悪いやつじゃないだろう、とたまに諭すくらいだ。
「朝の運動、終わり」
 妻は人形を拾い、手のひらで軽く表面を払う。呼吸に乱れはない。朝食にしようか。改めて声をかける。
 鶏をいたぶり始めて、妻は明るくなった。
 
 娘はおしゃべりチキンを泣いて欲しがった。ほかの商品には目もくれない。腹を何度も押して調子外れな声で鳴かせ続ける。異様にはしゃいで、売り場を離れようとしなかった。もういくよ。妻の声にぎいぎいと鶏が応えた。身体をくねらせながら娘は爆笑する。
 家に着くころには、とっくに人形は飽きられていた。それから長い間、誰も手に取ることはなかった。
 
 娘は春から都心で一人暮らしを始めた。奨学金の申請が通ったことは、私たち夫婦にとってありがたかった。
 入学早々、引っ越し先の区内で通り魔殺人が続いた。妻は気を揉み、よく眠れなくなった。娘に何度も連絡する。疎ましがられ、返信や応答が減ることで心配はますます募っていく。
 あまり時間もかからずに犯人は捕まる。そもそも現場は娘の生活圏と重なっていない。逮捕の一報を聞いたとき、妻はこれまで以上に苦しそうな表情で涙をこぼした。
 以降も頻繁に泣いた。何度か食事に連れ出してみる。その場では楽しげに過ごすものの、夜中にはベッドで身体を震わせた。
 どうしてそんなに悲しいのかと訊いても、妻はうまく答えられなかった。都会とか一人暮らしとか殺人などと口にするだけで、つながって文章にならない。
 大都市では事件や事故も多い。夜の全国ニュースで流れる度、ショックを受ける。幼児の虐待死や介護老人を巻き込んだ無理心中、さらには河川氾濫の報道でも同様だ。
 今まで気にならなかったのか、と尋ねる。
「今までは気にならなかった」
 ほぼ同じ言葉がくり返される。
 
 テレビを壊したのは私だった。夕食は特製の鮭鍋に決まっていた。切り身はそのまま、玉ねぎも丸ごと入れ、黒糖醤油で煮る。以前、アレンジできざみ生姜をたっぷり加えたところ、その味を妻が気に入ってくれた。
 アナウンサーが都内の銀行で起きた横領事件を伝える。妻は両手で顔を覆った。こらえきれずに声を漏らす。
 ガレージから古いゴルフクラブを持ってきた。アイアンでテレビを殴りつける。画面にひびが入った。破片は一つとして飛び散らない。わが国の技術の秀逸さよ。感心しながら、よりうつくしい軌道で二発目を叩き込む。生きていた音声も途切れる。天気予報が始まったばかりだった。手のひらにわずかな痺れと熱の余韻が残る。
 沸騰する鍋の中、鮭の皮は縮み、玉ねぎの輪郭はゆらぎ始めていた。
 
 妻は鶏の人形を振り回すようになった。叩く。殴る。踏みつける。異なる調子の鳴き声が響く。朝食はそのあとだ。
 テレビは廃棄した。新品はやって来ない。リビングに生まれたスペースも気にならない。陽気さを取り戻した妻と硫黄泉が湧く山奥の宿へ出かける。旅先でもテレビはつけなかった。周囲は静けさに包まれていた。ひさしぶりに二人で酒を飲み、昔の話をした。娘のことは触れられなかった。しばらく連絡するのを止めているらしい。
 板長自慢のきのこ料理が大量に出てきて、すべて平らげた。いい旅だった。
 
 妻は土産物の湯の花セットを配りに出かけていた。人形から押し笛を取り出す。喉のあたりを締め上げ、少しずつせり上げていく。口から吐き出させた笛は筒状だった。表情を変えることなく、おしゃべりチキンは声をなくした。
 それでも朝の暴力は続く。寝室の壁やフローリングの床、ベッドのヘッドボード、クローゼットのドア、階段の手すり、冷蔵庫の白い側面に叩きつける。天井に勢いよく投げつける。キャッチし損ねて、人形が倒れる。
 無造作に拾い、再び振り上げた瞬間、近づいた私の目に鶏冠が当たる。鶏は鳴かず、妻がすぐに謝る。視界がぼんやりする。
 ゴルフクラブはテレビと同じ時期に処分してあった。
 
 夕暮れが近づくころ、人形を焼いた。網に乗せてガスの火で炙る。両脚がはみ出している。押し笛をくわえてみたが、うまく音を鳴らせない。空気が漏れるだけだ。ビニールの燃える匂いがする。青い炎の上で無音のまま鶏は縮んでいく。肌の黄色が濃くなる。くちばしと鶏冠の赤さは変わらない。
 昼寝中の妻が起きてきて、何、この匂い、と訊いた。鶏を焼いている、と答える。ぴゃあ。笛が短く鳴り、口から落ちる。寝ぼけている妻は、特殊なタレなわけだ、とつぶやく。
 

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