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「青を産む」

 僕はトイレで地球を産んだ。二十九回目の誕生日だった。
 いきむことなく、それはちゅるんと出てきた。はう。思わず声が漏れる。経験したことがない感触に便器内の様子を確認する。
 青い球体がぷかぷか浮いていた。グレープフルーツ大で表面は艶やかだ。映像や写真でよく見かける、けれど実際にはこの目で全体像を捉えたことのない、地球そのものの外観をしていた。
 少しも汚く見えないし、興奮もしていたから、手ですくうことに抵抗はなかった。ずっしりと重みを感じる。指の間から水滴が垂れる。それでも地球は輝いていた。これがお尻から出てきたという事実に頭が混乱する。

 普段使いしているタオルで拭くことに抵抗があって、台所のカウンターに地球を置いてそのまま乾かした。ステンレスの鈍い表面にもその青さは反射する。
「なんか、地球産んじゃったんだけど」
 苗子にLINEを送る。なんて変な文章なんだ、変態じゃん、と思って、滅多につけない(笑)をつけ足した。
 五分後、僕は少し離れたところから青い星を見つめていた。地表には海があり、大陸があった。日本列島は裏側に位置しているせいで確認できなかった。しばらくして苗子の返信が届く。
「ほしのもと飲ませた甲斐があったよ、お誕生日おめでとう」

 ますます、わけがわからない。説明を求めるため、苗子に電話をかける。コール音はほとんど鳴らず、すぐにつながった。
 苗子は少しずつゴールドブレンドにほしのもとを混ぜて、それを僕に飲ませていた。僕はほぼほぼカフェイン中毒で、味なんてどうでもいいくらい、一日に何杯も飲む。確かに苗子は最近、やたらと積極的にコーヒーを運んでくれた。僕は動画を編集している間、何の違和感も抱くことなく、ずっとそれを口にしていたのだ。
 羞恥心みたいなものが胃の奥からこみ上げてくる。それと共に自分の傲慢さと鈍感さに傷つく。僕は当たり前のようにコーヒーを淹れてもらっておいて、それを何とも思っていなかった。独りよがりなナイーブぶりを発揮し、勝手に心を痛めてしまう。それはまた新たな傷口を広げることになるのだけれど、ともかく、苗子に対して申し訳なく思った。

 苗子は今、阿弥島にいた。そこでは十年ぶりに村長選挙が実施される。しかも、当日は島のお祭りもあるらしい。
 村長が亡くなり、その後継者を決める。ここ二十年近く、現職の対抗馬が立つことはなかった。それが今回、三人もの候補者が手を挙げた。人口三百人、七割以上が高齢者という島での選挙がどんなものになるのか。苗子はレポート記事を書くつもりだった。これまで島に訪れたことはない。彼女の生まれ育った県内にあるのだけれど、その存在を知ったのはつい最近だ。
 新幹線とローカル線を乗り継ぐ。その間に二度、駅弁を食べた。それから高速双胴船に乗る。乗り物酔いには強いはずだったけれど、三度吐いた。
 苗子は島に一週間近く滞在する予定だった。

 ほしのもとみたいなわけのわからないものを飲ませておきながら、本人は遠くに出かけてしまっている。その状況に僕はひどく戸惑う。無事でいられるのだろうか、と不安になってくる。実際、その困惑ぶりを声に出す。
 ごめんね、誕生日なのに。苗子が謝る。雑音が混じり、短い間、電波が不安定になった。
「まあ、でも、たぶん、大丈夫なはずだよ。なんかさ、誕生日にいきなり地球が出てきたら、おもしろいかな、と思って」
 苗子は押し殺したような笑い声を漏らす。
「そもそも、ほしのもとってなんなの?」
 改めて根本的なところが気になった。
「もちろん、星を作る素だよ」
 少しも説明になっていなくて、僕は何もわかっていないのに、そうなんだ、と反応した。待っていても続きが出てこない。そのまま通話が終わる雰囲気になりかけたので、もっと説明をおくれ、と頼む。
 苗子は面倒くさそうなニュアンスで、わかった、と言った。けれど、続きを話す様子はすごく楽しそうだ。

 ほしのもとはハンズ新宿店の五階で売っていた。粉を水に溶かして一晩待つと、固まって太陽系の惑星が出来上がる。そんなグッズがあること自体、驚くばかりなのだけれど、一目惚れした苗子はプレゼント用に贈ることにした。それどころか、粉を飲ませて星を産ませる。このアイデアに狂喜した。
 異常な飛躍はいかにも苗子らしい。そして僕は誕生日にまんまと地球を産んだ。
 今のところ体調に変化はない。食欲だってちゃんとある。苗子は、うんうん、そうなんだよね、きっとそのはず、と平然としている。

 電話を切ったあと、地球を作業部屋に運んだ。表面は乾いたけれど、海の部分は冷たく、やわらかかった。星はその丸みを失わない。これを僕が産んだのだ。もしも母性愛という感情が本当にあるのだとしたら、これがそうなのか、と思った。あやうく苗子に感謝の念を抱きそうになる。
 パソコン上のラックに並ぶ資料の一部を除けて、空いたスペースに地球を飾った。それは転がることなく、棚の上で安定した。自転こそしていないけれど、本当に星みたいだった。神様は自分が作った星をどんな気持ちで眺めたんだろうか、と思った。
 視線を上げると地球が見える。モニターに向かい、作業を進める。納品の締め切りも近く、今がまさに正念場だった。

 五年前から、アイドルのライブ映像の編集に関わっていた。僕が携わるマジカル水風船は総勢五人のグループだ。ヴァージニア・プロモーションのジュニア部門のメンバーで成り立っている。
 モノモライ・プロダクションは事務所から委託されて主にライブの構成と演出、その撮影や動画編集まで担う。代表の鉄男クンは、以前、自主映画を撮っていた。一度、僕はその音声編集を頼まれた。映画のタイトルは忘れた。やたらと難解でモノローグが多いことだけは覚えている。あと印象に残っているのは、主人公がバナナを半分に折ったあと、セラヴィ、とつぶやくところだ。それ以外にもただ思わせぶりなだけで、何の意味もわからないシーンばかりが続く。作業にはものすごく時間がかかった。ギャラはなかった。編集初日にいなり寿司のパックをもらっただけだ。けれど、このときの縁もあって、鉄男クンから今の仕事に誘われた。
 撮影のホルモンちゃんはフリーのカメラマンだ。ほかの仕事もばりばりこなしていて、そちらでは広告のスチール写真や企業向けの宣材などを扱う。はじめのうち、僕は音の調整をするだけだったのが、今では動画編集まで扱うようになった。それによって最小限の人数でライブ映像を完成させることができる。
 おかげで事務所を兼ねる僕の部屋は広くなった。けれど、先行きは不透明だ。現にその兆候は表れている。ライブ音源を使う際、歌を録り直したり原曲を被せたり、手間をかけることも多かったのだけれど、最近はそのままで済ませるようになった。経費節約が大きいのだろうけれど、それがマジカル水風船に限ったことなのか、事務所全体の方針なのか、よくわからない。あくまでモノモライ・プロダクションは外注業者の一つに過ぎない。
 映像を手掛けているのはマジカル水風船だけだ。そもそもこの人数ではほかのグループまで手が回らない。元々はチーフマネージャーと鉄男クンが高校の同級生で、そこからライブ全般に関わる話に繋がったらしい。この縁の効力がいつまでも持つものとは思えない。事務所がアイドルの売り出しから手を引くようになれば、一瞬にして僕たちの仕事がなくなる。
 鉄男クンはライブ全体の構成を考えているのだけれど、細かい注文をつけてこない。仮編集の映像を見ながら、いくつか気になった箇所を指摘する程度だ。日々、僕は一人でこつこつと作業を進める。

 夜遅くまで、ライブの音声を調整していた。どういうわけか、全体的に波音のようなノイズが混じっていて、それを取り除くことにかなりの時間を費やさなくてはならない。
 ホルモンちゃんが顔を出す。映像の確認のために来たわけではない。彼が担当すべき作業はライブ会場ですでに終わっている。ここを訪れるのは、別件の撮影後や終電をなくした場合がほとんどだ。家族が待つマンションに帰りたくない日もあるらしい。モニターを前にして、ホルモンちゃんはひたすらビールを飲む。余裕があるときは僕もそれにつき合う。
「きれいだね」
 ホルモンちゃんが地球を見てつぶやく。僕は、苗子からの誕生日プレゼント、とだけ説明する。おめでとう。缶ビールを渡される。高級海鮮丼を扱うお店のサイト用の撮影を終えてきたらしい。そこでもらってきた宝石御膳を僕にもくれる。本当だったら、苗子とどこかのお店でお祝いをしていたのかもしれない。そのイメージが頭に浮かんではじめて、今日って誕生日だったんだな、という実感が湧いた。
 豪華なお弁当を食べながら、鉄男クンが彼女と別れたっぽい、という話をする。ターコイズ色のバングルは、彼のトレードマークと言えるくらい、ずっと左の手首に留まっていた。クリスマスにプレゼントされたものらしい。けれど、それをしばらく目にしていない。その不在による不穏な空気を僕もホルモンちゃんも嗅ぎ取っていた。
「結婚直前とか言ってたのに」
 スタイリストの奥さんとの間に娘もいるホルモンちゃんが悲しそうに笑う。それが少し意外だった。僕は黙ってうなずき、ビールを一口飲む。きらきらしたイクラがズボンの上に落ちていた。それを摘まもうとすると、ころころと股間の近くまで転がる。
「で、そっちはどうなの?」
 案の定、こちらの様子を尋ねられる。僕は、うん、まあ、どうなんだろう、と言葉を濁す。棚の地球を眺め、先のことはわからないな、とほとんど何の意味もなさないようなことを口にした。ホルモンちゃんは冷蔵庫からまたビールを持ってきた。彼自身はハイネケンを開けて、僕にはエビスビールをくれた。
「恵比寿様が、ハピバス、だって。見てよ、この満点満面の笑顔」

 翌日、僕は火星を産んだ。きっと、これは火星なんだろう。やっぱり痛みはなく、するんとした感触で便器に落ちた。あ、まただ、まだ続いているんだ。これが率直な感想だった。
 火星は地球よりも小さくて、水の中からサルベージしたところ、とても軽かった。間近で見ると赤というよりもオレンジっぽいな、と思った。しっかり乾かしたあと、作業部屋の棚に飾る。
 また産んだよ、おそらく、火星。苗子にLINEを送った。一時間後、意味のよくわからない「おいら何も見てないでやんす」のスタンプが返ってきた。僕は「ゴリ夢中(ウホ)」を送り返した。
 その夜、ウェブ上で苗子の選挙戦レポートの前半部分が公開された。記事は牧歌的すぎる状況を肯定的な目線で捉えた内容だった。

 立候補者の三人はほぼ同年齢、もちろん、みんな顔見知りだ。日中、港からすぐ近い、馬小屋の前に集まる。開けた草地で円座して話すのは政策についてではなく、阿弥島の思い出だ。三人とも長くこの島で暮らしてきた。だからいくらでもエピソードがあると思いきや、幼少期のことばかりくり返し語る。
 ぱらぱらと島民も立ち寄り、時間がくれば立ち去り、また別の誰かがやってくる。馬は何年も前に本土から連れてこられた。木材や石材、獲れた魚などの荷運びを担ったものの、とっくにその役目を終えていた。葦毛だったものがほとんどアルビノのような色に変わった。村長候補の話の傍ら、ときどき、ぶるると鼻を鳴らす。島民たちが笑う。誰かが持ち寄ったお茶を飲み、饅頭やふかした芋を食べる。中には一人で酒をあおって気持ちよさそうに居眠りするものもいる。
 やがて候補者以外の人々もしゃべり始める。そこでも話題となるのは選挙よりも祭りに関することばかりだ。
 とはいえ、十年以上もその形式に変化はない。船の安全と大漁を祈り、海の神を祀る社から島民たちが神輿を担ぎ、島を一周する。最後には夕日が沈む海に向かい、歌をうたう。祭りの当日にはほとんど雨が降ったことがないらしい。
 高齢化によって神輿のルートはずいぶん短縮された。記録によると、かつては歌の代わりに、神楽が舞われていた。今では漁師の数も激減した。小ぢんまりとしたこの祭りを成立させるため、島以外からも人手を借りる。
 
 こうした選挙戦の様子が細かく記されてある。候補者たちは区別がつかないくらい、よく似ている。髪の色も量もほぼ同じだ。サイトには白い馬の画像も掲載されていた。目が大きくて、まつ毛だけが少し黒かった。
 記事を読んだとメッセージを送る。苗子からは、全然知らない魚がやけにうまい、と返事があった。

 二回目に産んだ星はやはり火星に違いない。表面の水が乾くと、ぎゅっと固まったように見えた。隣に並ぶ地球の半分くらいの大きさだ。色はより濃さを増した。
 これはどこまで続くのだろうか。地球、火星ときてこのまま太陽から離れていくのか、それとも内側へ向かうのか。この次か、また別の機会に木星を産む可能性を考えて憂鬱になった。太陽系について僕はよく知らない。けれど、木星がとにかく大きいことくらいの知識はある。
 そういえば、二日ほど排便をしていない。お腹が張っている気がする。それはこうして意識してしまったせいかもしれないけれど、緊急を要するような便意は感じられない。星を産むとき一緒に出てきたら、っていうか、うんこの星が出てきたらどうしよう。これまでに考えたこともない不安を抱く。

 作業の続きに取りかかる。マジカル水風船ワンマンライブ「すてきな てきやに あそびに来てや だいだいだいすき夏まつり」の映像をできる限りタイトにする。夏祭りをモチーフにしたライブは、彼女たち、そしてファンにとっても、一年で最も重要なイベントだ。
 歌と歌の間で、メンバーが屋台の店主になってコント的なやりとりを披露する。このお笑いパートもお約束の一つだ。明らかにすべっている部分、誰の得にもならないような部分をカットしたり、ぎりぎりのところまで間を詰めたり、前後の文脈を入れ替えてみたり、やれることをいろいろ試す。
 コントも鉄男クンが考えているのだけれど、正直、どれくらいおもしろくなくてもいいのか、今の具合がちょうどいいのか、僕にはなかなか判断がつかない。編集を続けていると基準もどんどんぼやけてくる。
 メンバーすべての名前にボンボンがつく。この春に一人、脱退というか卒業というか、表向きにはそうなっているのだけれど、本当は解雇されて辞めてしまった。リーダーのルル・ボンボンは白色が割り当てられている。圧倒的に人気があるのは黄色のジュジュ・ボンボンで、鉄男クンによると、ソロデビューの計画が水面下で進行中らしい。
 
 最近はまっているボルガライスをウーバーイーツで頼むつもりでいたものの、タイミングを逃してしまった。コンビニまで出かけるのも面倒で、一段落つくまで作業を続ける。空腹のせいか頭が回らない。左右両方の目の奥がじんじんとしている。
 追い込みの時期になると一日に二十時間近く、マジカル水風船のメンバーをずっと見ていて、そのしゃべりや歌声を聴き続ける。みんな、かわいらしく、華もある。頭の回転も速いし、今どきのアイドルらしく、育ちだってよさそうに見える。
 彼女たちに恋愛的な思いや性的な衝動を向けることはない。けれど、いつか、そういう目で見てしまうのではないか、とずっと恐れている。欲望を抱くだけならともかく、自慰の対象にするとか、そこからもっとひどいことに及んでしまうのではないだろうか。そのための素材をいくらでも持っているし、これから先もどんどん手に入る。
 今日もまた、彼女たちの歌やダンスやおしゃべりを調整して、映像を切り貼りする。耳を澄ますと聞こえる通奏低音みたいに、ある種の怯えが絶えず僕にまとわりついている。
 
 夜中、ちゃんとした、という言い方もどうかと思うけれど、本物のうんこが出た。それは星を産む感触とはまるで違っていた。僕は心から安堵した。きっともうこれで終わりなのだ。
 けれど、ひと眠りしたあと、朝方、それはお尻からするりと出てきた。痛みはなく、ただじわりと熱を感じた。その瞬間、これは星なんだとわかった。あとは、どの惑星なのか、という問題だった。
 立ち上がり、便器の中を確認する。その星は黄色味がかり、全体が輝いていた。場所によって明るさも違い、暗い部分もきれいだった。たぶん、僕は金星を産んだ。

 昼間、寝不足の状態で病院に出かける。自覚症状はないにしても、どこか問題がないか診てもらうつもりだ。何しろ、ほしのもとを飲んだのだ。けれど、実際にお医者さんを前にすると、星を産んでいる、なんて言えなかった。だから、ちょっとお腹の調子が悪いみたいです、と伝えた。
 その先生は頭がつるつるだった。あまりにきれいだから、最初、ゴムキャップでもかぶっているのかと思った。口調はおだやかで、そのしゃべり方だけでずいぶん気持ちが落ち着く。
「お腹が痛いの?」
 僕は子供みたいに黙ってうなずき、それから恥ずかしくなって、はい、と言った。
 へそ周辺に手を当てられた。今、もし体内で次の星が作られているとしたら、どのような感触がするのだろう。手のひらに胎動や温かさを感じるのだろうか。先生は首をひねり、顔をお腹に近づける。それからしばらく目を閉じていた。
「じゃあ、お薬出すから、それをちゃんと飲んで、あとは暖かくしてすごしてね」
 
 そのあと本屋に寄った。子供向けの太陽系について書かれた本を買う。迷った末、写真がたくさん載っているものを選んだ。
 帰宅してぱらぱらと眺める。いかに宇宙のこと、星のことを知らないのかを実感する。本はとてもわかりやすく、くわしい解説が惑星ごとに記されていた。「水金地火木土天海冥」と歌で覚えた子供のころから、宇宙の研究はさらに進んでいるようだ。冥王星がランクを下げられた、というニュースを見聞きした記憶はある。けれど、準惑星という響きになじみがなく、それに関する議論もまだ続いているなんて、はじめて知った。
 頭がひどく重い。編集作業もほどほどでやめておく。病院でもらったお腹の痛みを止める薬を飲んでから、ベッドに寝転ぶ。

 夜中、僕は水星を産んだ。見た目が氷みたいだった。これまでと比べたらかなり小さい。表面もクレーターだらけだ。だからすぐに水星だとわかった。学習の効果が出ていることがうれしかった。
 同時に、やぶ医者め、と八つ当たりに近いことも思う。金星みたいな頭しやがって。腹痛の薬なんてちっとも効きやしない。星を産むのを止められない。僕は諦めに近い気持ちでその星をすくい上げた。
 水星はひんやりとしていた。持っているだけで溶けてしまうのではないか、と不安になるくらいだ。だからすぐに飾った。一度安定すると、その形状のまま変わらない。星たちはそれぞれが異なる個性を見せる。僕は次に備えて、棚にさらなるスペースを作った。

 木星は超難産だろう、ことによるとお尻が壊れちゃうかもしれない、と怯えていたけれど、ガスのように音を立てながらその星は出てきた。これまで同様、まるで痛みはなかった。
 表面にはきれいな模様が浮かんでいる。すでに十分な大きさだったけれど、どんどん膨らんでいく。僕はそれを手に持った状態で眺める。膨張する圧力を手のひらに感じた。もしも神様がいるとしたら、こういう光景を見ていたのだろうか、とデジャブめいたことを思った。
 土星を産んだときは感動した。やはり最初は小さく、あとから徐々に大きくなり始めたのだけれど、最初から環ができていた。

 日々、増えていく星を撮影して苗子に送った。木星や土星を産んだときの感想も伝えるのだけれど、意外とリアクションがうすい。それどころかまた変てこな、おめでとうギョざいます、というスタンプを返してきた。
「太陽系のひみつ、って本を読んでるんだ」
 夜の八時過ぎ、僕たちはLINE通話で話す。
「お、勉強熱心じゃん」
 苗子がふすふすと笑う。それで会話は終わる。星に関する内容は何も触れない。僕の身体を気遣う様子もない。
「魚食べ過ぎて、なんかつやつやになってきた。あと、ちょっと太ってきたかも」
 苗子は途中からわざと低い声を出し、もったりとしたしゃべり方になった。僕は笑わなかった。
 
 予定調和のように天王星を産んだ。その青い惑星は地球とはまた別のあざやかな輝きを帯びている。
 今や、便器にトイレットペーパーを敷くようになった。どうしても濡れてしまうけれど、いきなり水の中に落ちるよりましだ。手に取ると、天王星が少しずつ膨らむ。環も広がっていく。僕はその星が横倒しになった状態で回転することをすでに知っている。並べるにはどうすればいいかな、と思いながら、大きくなる様子を眺める。
 しばらく考えた末、棚の天板の裏にフックをつけた。粘着テープで固定して、そこに環をかけた。我ながらいいアイデアだと思ったし、飾られた天王星のうつくしさに感動もした。

 マジカル水風船において、さらなる脱退騒動がくすぶり始めている。ミミ・ボンボンがグループから抜ける、それどころか芸能活動を辞めるつもりだ、とマネージャーに伝えたらしい。そこに親も絡んできて、話がややこしい方向へ進みつつある。
 不思議なもので、事務所のタレントは性別を問わず、顔つきや雰囲気が似る傾向がある。マジカル水風船の面々も同様だ。ただ、一緒に活動していると個性の違いがよりはっきりと強調されていく。そうした細かいところで人気の差が現れる。そして何よりも、メンタル的な強さ、あるいは無神経さが必要なのだ、と僕は思い始めている。
 ミミはずっと自分に人気がないと思い悩んでいた。実際はそこまでではないのだけれど、当人の感覚としては自己肯定感が低くなってしまった。そういう思いの中、ファンの前で常に笑顔を維持していることは余計に彼女をしんどくさせる。
 ライブでの彼女のひたむきさと、機転の利くところを僕たちは評価していた。その資質は唯一無二で何ものにも代えがたい。編集しているとそれがよくわかった。それでも、悲しいとか残念というよりも、どうか楽になってほしい、というのが僕の正直な気持ちだ。
 鉄男クンと映像の最終仕上げを確認していた。そこでミミ・ボンボンの話を聞いた。突然、ステージに向かって飛んできた風船を回し蹴りでフロアに戻した場面なんて、ライブのハイライトと言ってもいい。投げ入れたファンは速攻で退場になったのだけれど、青い風船は割れることなく、勢いよく飛んでいく。何度見返しても、その軌道はうつくしかった。そして青はミミのシンボルカラーだ。
 ほかのメンバーもこのアクシデントに歓喜して、ステージ上の誰もがとても楽しそうに見えた。僕は余計に胸が苦しくなった。

「星、きれいだわ」
 鉄男クンが棚に並ぶ惑星を見るのははじめてだった。僕はくわしいことを説明せず、ただうなずく。
 それから鉄男クンは、彼女と別れたんだ、と小さな声でつぶやく。つい彼の左手首に視線を送る。やはりターコイズ色のバングルはそこにはない。僕はなぜか無性に恥ずかしくなる。そこだけ日焼けしていないとか、その部分だけ少しへこんでいるとか、何かしらの跡があったら、きっとそんな感情なんて持たないのに、と思う。
「脱退騒ぎがどうなるかわからないけどさ、水風船の活動が止まったら、もう、俺らの仕事も先がないかも」
 そのとき僕はどうするんだろう。うまく想像ができなかった。接点がなくなったその瞬間、彼女たちを見る視線は変わってしまうのだろうか。怖いような、それを望んでいるような、もわっとした気持ちが混ざり合っていた。
「今度のライブのテーマ、惑星とかっていいかもな、それぞれに別の星を担当させてさ、なんか、グッズとかも売れそうじゃない? あ、いっそのこと、水風船なんかやめちゃって、惑星アイドルっていう感じでリブートしたら、もっと売れそうな気がしない?」
 それ、もうセーラームーンじゃん。僕はなるべくクールに答えた。

 編集作業は昼前までかかって、なんとか終わらせた。完パケ状態の映像を収めたあと、鉄男クンは帰った。一人きりになった瞬間、僕は星を産んだ。
 海王星の青さは地球とまた違っていて、ものすごくあざやかだった。深海に光が照らされたような色味に自然と声が漏れた。
 最初に地球を産んだときからずいぶん時間が経った気がする。太陽系の惑星だけだとしたら、これで終わりかもしれない。あるいは、明日には冥王星を産むのかもしれないし、この先、それぞれの衛星、月やタイタンやガニメデまでいくのかもしれない。別の準惑星、まだ名前のない星だって産めるのかもしれない。
 もしもそのときがきたとしたら、本格的な解説本を読むのだろうか。それどころか、いつまでも星を産み続ける僕は、最先端の宇宙論を追うことになるのだ。

 海王星が乾くのを待つ間、うとうとしていた。短い夢を見た。
 僕は日比谷野外音楽堂のステージに立っている。そこでお尻からどんどん星を産んでいく。客席は異様な盛り上がりを見せる。星が生まれるたび、その名前が呼びかけられる。中でも地球コールは特別に盛大で、周囲の空気を震わせる。けれど、そのうちに何も出てこなくなる。お腹もしくしく痛み、これはうんこじゃないだろうか、と思うと怖くて本気で力を入れることができない。ブーイングがあちこちで起き始める。ただ、星はどうやったって生まれてこない。焦れば焦るほど、その気配が消えていく。
 変な夢を見たな。うっすら意識が残る状態でそんなことを思い、僕はまた目を閉じる。それから本格的に長く眠った。

 目が覚めると苗子がいた。また夢なのか、と思ったけれど、本物だった。
「ただいま」
 夏の真っただ中にいるみたいな恰好だった。ピンクのキャミソールの裾がくしゃくしゃとなっていた。全然太っていないし、声だって低くない。笑おうとしたけれど、喉が渇いていてうまく声が出なかった。かろうじて、にゃあ、と僕は言った。寝ぼけているせいだけれど、たぶん、甘えてもいた。たぶんじゃなく、確実に。
 選挙とお祭りを見届けてから、苗子は島を去った。船中で吐きながらも記事を書いた。そして新幹線に乗っている間に校了した。すでに記事はアップされているらしい。
「ねえ、選挙の投票率、いくつだったと思う?」
 ペットボトルのお茶を渡される。五口くらい飲んだところで、また変なのが入っているんじゃないだろうか、と不安になる。僕の考えが分かったのか、だいじょうぶだよ、と苗子が言う。
「だからさ、投票率、いくつだと思う?」
 苗子がくり返し尋ねる。
「阿弥島?」
 ようやくまともに声が出た。よくわからないな。喉の調子を確かめるようにつぶやく。
「99%」
 やば。やばいよね。僕たちは笑う。
「そこまでいくと誰が行かなかったのか、気になるな」
「それがね、今朝には亡くなっちゃったんだけど、当日っていうか、昨日まではぎりぎり生きてたんだよね、その人。で、その人の一票と」
 苗子が続ける。もう一人の島民が死の淵をさまよっていた。その老人も投票できなかったのだけれど、どうやら死地から舞い戻り、無事に存命しているらしい。選挙に行かなかったのは、その二人だけだ。
「すごい島だな」
 苗子はそれには答えない。どうも心あらずな様子だ。しばらくバッグをごそごそと探り、地球を取り出す。じゃーん。じゃーん。苗子は二度、効果音を発した。
 その星もちゃんと青く、地表には海も陸もあった。日本列島だって見えた。棚に視線を向けると、僕の地球はちゃんとそこに飾られていた。
 どういうこと? と尋ねる。
「わたしだって、ちゃんと危険かどうか、前もって試したんだからね」
 苗子が指でハート型を作った。きっとそれはハートなんだろう。

 苗子は自ら実験台となって、事前にほしのもとを飲んだ。本番と同じように、少しずつゴールドブレンドに混ぜる。そこで一応、身体に異変がないか確かめていた。その思いつきと無軌道ぶりに呆れてしまうと同時に、彼女に何ともなくてよかったと安堵する。すべてを理解できないにしても、苗子の気持ちがうれしかった。
「じゃあ、どこまで、何の星まで産むかわかってるってこと?」
 僕の声が震えた。どういう答えがほしいのか、自分でもよくわからなかった。
「まあね」
 苗子は笑った。でも個体差あると思う、根拠はないけどね、と言い足した。僕はそれぞれの地球を交互に眺めていた。
「遅れちゃったけど、改めて、お誕生日おめでとう」

 地球が二つ、ほかの太陽系の惑星が七つ、僕たちの近くにあった。そのほとんどを僕が産み落とした。
 この先、苗子と結婚して、子供が生まれるかもしれない。もしかしてそれは女の子かもしれない。その子にいつか性的な視線を向けてしまう。その可能性に怯えながら、僕は僕なりの真っ当な愛情を持って育てていくのかもしれない。
 イメージの断片がいくつかフラッシュみたいに瞬いて消えた。こんな想像はまるきり間違っていて、パラノイアにさえなっていないのかもしれない。でも正しくなかったとして、そもそもどの段階から間違えていたかなんて、誰にもわかるはずもない。
 尚も馬鹿げた思いが浮かぶ。いつか子供が生まれたとき、今の経験が役に立つんじゃないだろうか。出産の苦しみを知っている、なんて言うつもりは微塵もない。けれど、僕も苗子も同じように地球を産んだ。それは僕たちにある種の共感をもたらしたに違いない。
 それと同時に、僕と苗子はそんな未来を迎えないかもしれない、とも思った。よくある恋人たちのように、自分たちの過去の恋愛のように、あっさりと何の未練もなく別れる。もしくは激しく憎み合いながら別々の道を進む。例えそうなったとしても、僕はこの惑星たちをいつまでも大切に取っておくだろう。
 
 僕も真似をして、指でハートマークを作る。けれど、うまくいかない。苗子に見られることもなく、その不格好なサインを解いた。手持無沙汰になって、お腹を擦る。痛みはない。小さな胎動を感じる。新しい星の予感だ。
「ねえ、俺の地球のほうがきれいじゃない?」
 そうかもね。くるくると器用に青い星を回転させながら、苗子が静かに答える。

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