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「テングむすめ」

 お見合い大学で知り合った相手といい感じに飲んでいたら、その女の顔全体が真っ赤に一変、さらには鼻が伸びた。すぐさま元に戻ったが、明らかにまっすぐ突き出していたし、ちょっと見たことがないくらいの異様な顔の赤さだった。えっ、天狗? 俺は言葉を飲みこむ代わりに、酒を飲んだ。飲み続けた。
 結果、もっといい感じになった。おいでよ、お家においでよ。女が誘ってきた。

 連れて来られたのは高層タワーマンションの最上階。なんでも親戚が所有する物件らしい。それはそれでいろんな意味であやしいが、俺は誘惑に打ち勝てやしない。部屋はシンプルなインテリアで統一され、落ち着いた雰囲気だ。ものも少ない。
 だが、俺は玄関に一本歯の下駄が置いてあるのを見逃さなかった。廊下にかかっている黒い蓑みたいな、わさわさした上着も。というか、窓際の壁にはでかいカエデみたいな団扇が立てかけてあるし。やい、三点セットがそろってるじゃないか。
 俺がここまでやって来たのは、女との会話が楽しいということもある。芸人のラジオを聞くのが大好き、そんな共通の趣味を持つ相手も珍しい。それが十代の少年少女ならともかく同世代なのだから、お見合い大学おそるべし、と言ったところだ。飲み屋に入ってからは、各番組で有名な投稿者の名前を挙げては、ひとしきり盛り上がった。俺も相当なマニアだと自負していたが、女のラジオ愛は強く、その守備範囲はあまりにも広い。夜明け前の誰が聴いているのかわからないミニクイズ番組まで、女は網羅していた。

 もはや女の顔の変化は十秒に一度くらいの頻度になっていて、どちらが素なのかわからないが、テングじゃないほうの顔は俺にとって理想的だ。ショートカットにちょっとタレ目なところがいい。それでいて下唇がぽてっとしている。
 低いガラステーブルを挟むように座り、飲み続ける。あらためて俺は自問する。酒で顔が赤くなるのと、テング状態とは別物だよな。それと、ちょくちょく鼻先が当たりそうになっているけど、自分で気づいてないのか?

 女はときどき席を外す。窓の外は暗くてよく見えないが、ばさばさ、という音が聞こえるのは何故だ。カラスの鳴き声もする。決して牧歌的とは言えないような音がしばらく続いたあと、女は戻ってくる。
 何度目かの不在時、俺はリビングから続く奥の部屋に足を踏み入れた。やたらと立派な本棚があった。いやでも目につくのは、「天狗――その歴史と伝承」という分厚い本。ほかにも「今、明かされる天狗伝説」「涙のてんぐちゃん」などが並ぶ。それらに混じって「ピノキオ(愛蔵デラックス版)」があるのは親近感によるものなのか、何かしらのアピールなのか、俺にはわかるはずもない。

 女はもうほぼテングだ。さっき携帯で天狗についてさっと調べてみた。女の天狗がいるのかどうか知りたかった。これまでそんなの一度も気にしたことはない。だいたい、天狗っていくつなのよ。「天狗 女 ガチ」で検索して出てきたものを見ると、どうやら尼天狗ってやつがいるらしい。よっしゃ。何がよっしゃなのかわからないが、一瞬そう思ってしまった。
 しかし天狗について、俺は、俺たちは、何を知っているのだろう。おおよそのパブリックイメージ以外、謎だらけだ。そもそも、本当に見たことがあるやつなんているのか。むしろ、今の俺こそ天狗に、その実態に一番近い存在ではないだろうか。

 今や、テングそのものでしかない女と俺は深夜ラジオの話をしている。「ぴっかり! わてらの文明開化」とか「お上品な下ネタをちょうだい」、「さみしいオノマトペ」などのコーナーについて、ああだこうだ言い合い、ちょくちょく笑う。今日の俺は絶好調ってくらいに、いくらでも酒が飲める。これだけのマニアなのに、部屋では一度もラジオをつけていない。やはり一人きりで聴くスタイルなのだろうか。その気持ちは俺にもわかるし、なぜだか少し申し訳なく思った。
 一瞬、沈黙が生まれたあとで、女が急にもじもじする。言いにくそうに、あのね、とかつぶやく。いよいよカミングアウトされるのか、と覚悟する。ああ、どうせなら早いほうがいい。俺は顎に手をやり、そこを揉むように女の言葉を待つ。
「本当は、わたしが、いちごスクランブルなの」
 女は顔を赤らめる。この場合は、一旦、テングじゃないほうの顔に戻って頬を赤く染める、という意味だ。いちごスクランブルって、さっきまで散々話題にしてきた有名投稿者じゃねえか。俺は純粋に驚き、やだ、うそ、とか口にする。
 女はそれには何も答えず、また俺を置いていなくなる。すぐに建物の外から、ばさばさばさ、ものすごい羽の音が聞こえてくる。ますます騒然となる。その凶暴さに怯えつつも俺は窓際のカエデの団扇に近づき、持とうとする。やたらと重くて、両手でもまともに振ることさえできない。これは、本物だ。どういう意味かわかりもせず、そんなことを俺は思う。
 そのあと、まだまだ飲んだのだが、俺はおじけづいて、女とどうこうなることはなかった。何度目かのトイレに行ったとき、俺の顔も相当赤くなっていた。

 朝、女が料理してくれた。卵焼きとほうれんそうのおひたし。あとは大根のみそ汁。おひたしには黒、みそ汁には白のごまが振ってある。料理はどれもはっとするくらい、おいしかった。俺は素直に思ったことを言った。ありがとう、女は照れた表情を浮かべた。夜明けが近づくにつれて、テング状態の割合は徐々に減ってきた。俺はそれが惜しいような気がした。
「お店、出しちゃおうかな、なんて」
 女が軽口をたたいた。俺は思わず、テングになるんじゃないよ、と言いそうになった。その言葉をデジャブみたいに飲みこんだ。人様の傲慢さに対して、そんな言い回しをこれまで口にしたことも、頭に思い浮かべたこともないのに。
 しばらく沈黙が続いたあと、外から何かが飛び去っていくような音が聞こえた。そしてまた部屋の中は静まり返る。俺と女は見合って、ふへっ、という笑い声をそろってあげた。

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