エッセイ:どこまでも寂しい草原にひとり
早稲田大学に行けませんでした。
それだけであれば、べつだんなんの心配もありません。就職すれば良いだけです。じっさい、今のわたしはー精神科病棟入院を経てー就職に着実にコマを進めています。早稲田である必要などどこにもないし、受験勉強がわたしには向いていなかったので、さっさと諦めて放送大学にゆくべきでした。実際、そうなりました。学士号は放送大学でとるつもりです。
しかし、少なくとも受験当時、早稲田大学である明確な理由づけがありました。
わたしは詩と批評、いえもっと実験的な分野横断の試みという野心のために文芸サークルだの哲批サークルだのに入らなくてはいけなかったのです。
なぜか。
今現在、わたしのような凡そカリスマ性のない無力で愚かな女が一人でなにか活動を立ち上げることなど、不可能だからです。(女であるという点はマイナスどころかプラスになるかもしれませんね。すくなくともポリティカルにコレクトリーな文脈であれば弱い女の活躍は渇望されているのですから)
まあ謙遜しすぎな気がしないでもありませんが、こんなふうな無力感に陥ったには訳があります。
高校生のころからTofuonfireの名義で何やら文章を書いていたりしました。その頃は、まあ昔風にいえば「けつの青いがき」であったし、全く無知でした。しかし、言語活動の分断(それはひょっとしたら漫画メディアなども含んでいましたーいまは明確に含んでいます)に対する欲求は飽くなきものでした。
何も知らないがままに、まあ知られている有名人であれば、寺山修司だの柄谷行人だの浅田彰だの赤瀬川原平だのといった分野横断的活動を好んだ作家にシンパシーを抱いていました。わたしは、文字媒体をハッキングしたかったのです。
しかし、それが読まれなければ、衆目に晒されて評価されなければ実験には意味がないのでしたー学会発表に先んじて発券をした市民科学者のようになってしまうのです。
むろん、市民には市民の楽しさがあろうものですが、わたしはちゃんと衆目に自分の実験を晒して、価値観をノックアウトしてやりたいという思いがあったものですから、なにか掲載できる媒体がないか常に探していたのです。
ーさいわい、自由詩の処女作がココア共和国に佳作で掲載されました。
しかし、自分の幼い手つきと知性で活動できるプラットフォームは限られている、どころか皆無でした。
同年代の志をもったものはみな、賢い高校の賢いものたちでまとまって校内で文芸誌を書いていたからです。
おもえば落伍者です。幼少の頃から勉強と宿題の意味を解さずー理解できればそれで良いと思っていたのですー空想と図鑑や分厚い本の知識に遊んで、中学では教師ぐるみの排斥にあい(まあわたしのほうがおかしかったので当然の対応だと考えています)、気づけば走る脚が折れているのでした。
志望する高校を行き損ね、落ちた先での高校では人生への疲弊の果てに発狂し、それから紆余曲折あってインターネットへ飛び込んだのでした。
いっぱんにインターネットというのは発狂した人間だらけだと思われています。事実です。しかし発狂した人間が同類に優しいということは全くなく、むしろ彼らはわたしに冷たい視線をむけました。
まあここでつらつらと被害者づらで何かを語るのは馬鹿らしいことです。実際、わたしが悪いのだから。ー彼らの望む努力を提供できない無力な愚か者であるという意味です。
ー話を戻しましょう。要は、わたしは現代で活動するには人脈的リソースが圧倒的に足りないのでした。
しかし幾許の可能性はありました。「早稲田大学」でした。
特定の学部が魅力的であったのは事実です。しかし今にして思えばそれは瑣末な問題でした。
そこの出身者には実験詩人やなにやらが多かったのです。ようはそういった活動を続けている同士とコミュニケーションを取れる可能性が格段に上がるということなのです。
話しかけても誰も反応しない、何かをしようと持ち掛けても苦笑いで返される、インターネットでも学校でも似たような環境だったので、いい加減人寂しさに堪えかねた…もっというと実験に取り掛かりたかったわたしは、迷わずそこを選びました。
病気が悪化しました。明確に勉強の負荷のせいです。もとより好きなことをやっていても負荷が掛かるようになった脳ですから、トラウマの多い勉強ではなおさらでした。
しかし自分が横断的な知識を持ち、ある程度の弁がたつのもまた事実でした。わたしが自らの能力をひらめかせるその度に興味を持った年上の人間を引き寄せました。
潰れていくのをみるやそれらは去っていきました。いえ、彼らに耐えられなくなってわたしが遠ざけたのでした。
とうとう、入れませんでした。諦めたその末に、いくらか経由して、入院しました。
入院して死にたくなるのはふしぎです。しかし、精神科病棟ではそうなのかもしれません。ハンガーストライキを起こして変えてもらった最初の「閉鎖病棟」では、風呂は週三日で、気のふれた(まあわたしも大概気が触れていたのですが)攻撃的な女がちょっかいをかけてきて、数少ない娯楽のテレビは、おそらくそこで位の高い位置なのであろうトドのようなおばさんが寝転がってつねに占拠していました。
ー覚えているかい、「◼️◼️◼️◼️」。お前はとうとうわたしの元から消え去ったけれど、退院してから最初にかけられた言葉はわたしの元にずっと残っているよ。「病気の原因の性格の問題が看護婦を苛立たせた」だったかな。ドイツ観念論に染まり切った言語の〈絶対〉の信仰者らしい言葉だね、原因がわたしにあるようで良かったよ。
ふざけるなよ!
退院して、紆余曲折があって、いろいろなことを諦めました。
一介の同人作家になることにしたのです。剽窃とハックと実験は、5部くらいしか刷らないオタク向けの同人誌でも可能でしょう。
ひとりでずっとやっていこうと思いました。
振り向けばひとりでした。おもえばずっとひとりだったのです。何も協力などだれもしない人生であったかもしれません。あるいは違うかもしれません。(ここでいう協力者は友人とは根本に性質を異にすることを留意してください)
さみしさに溺れて誰かと志を共有すれば「ひとりで立て」と言われるような女です。
ひとりです。
寂しいです。
草原を思い浮かべてみます。
そこにはわたしの「友人」のパンナコッタ・フーゴ、ウマ娘にしたたくさんの競走馬、無数のキャラクターが立っています。
ーフーゴ、わたしには「ハイ・レッド・センター」も「天井桟敷」もできないんだよ。
「うーん、きみがいわんとすることは分かるよ。きみがぼくを好きだった理由は「物語の越境性の保持ゆえの孤独」だったろ。でもやっぱり、現代において「攻撃的な性質を持つ実験集団」は強いシンパシーがないと実現しないからね…きみがあげたどれも、今はもう亡いし瓦解かなにかしてるだろ。それはやっぱり、いわゆる「音楽性の違い」だよ。シンパシーが見つかるかどうかは、運さ。ーしょうがないよ。君の中にいるぼくがはげましても仕方がないけどさ。こうやって流産していく才能がたくさんあるってことなんだろ。きみがそれかはわからんがね」
ーでもフーゴ、あたしだってあのあいトリや2024の横トリの作家みたいなことがしたかったんだ。でも作家という文脈がなければ、その行いはただの狂奔でしかないんだよ。そしてそれは周囲の他者が徐々に認めて行くものなんだ。…どうしよう?どうやって文脈を保持すればいいの?どうやって活動すればいいんだろう?あたしは「遊ぶ」ことしか人生にたのしみがないのに…
「…まあでも、この、流産する子供の哀しみは、ある意味貴重なんじゃないかね。きみはきっと社会人として疲弊して、疲弊して、働いて眠って、このことを忘れてしまうよ。現にきみはいま躁状態で食欲がない状態だ…寄せる孤独は実存のひとつであっても、いずれは還っていくんだよ」
このような返答が二、三あり、わたしは踵をかえしました。
このままどこまでも無力感と戦っていくのでしょう。その度に強くなるのかもしれないし、あるいは財力が手に入り小説や詩や批評のための本を大量に蓄積できるようになるのかもしれないし、どうなるのかはわかりません。
が、この心の中には茫漠とした草原があります。
わたしは大逃げ馬かもしれないし、最悪の追い込み馬なのかもしれません。でも、レースに参加できないことはたしかです。
溺れていくような哀しみのなかにウマ娘やあの日みた馬たちが渦に巻かれていき、その度にわたしはついぞ皆に拍手されなかったクライムカイザーを思い出します。
薄汚れた髪をかきあげ、オーバーヒートする脳を覚ましながら風呂に入ります。
どこまでも走りたかったな。
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