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ハトの心、カラスの美学、人間の傲慢


この家に引っ越してきて間もない頃、目に映るすべてが新鮮だった。今ではすっかり見慣れた駅までの道でさえも、すべてが新しかった。目新しさに心を躍らせつつも、自分の余所者感が拭い去れず、私はなんとなく孤独を感じていた。

そんな暮らしの中で、私が勝手に親しみを覚えていたのがハトである。ヒトが近くにいないとなると、どうやら私はハトを代用とするらしい。確かに一文字しか変わらないし、似たようなものだと思う。大らかなのが私の良いところだ。

ハトのあの独特のフォルムとなんとも言えない歩き方が好きだ。愛らしさと趣があると思う。


毎朝、駅までの道を歩いていると、数えきれないほどのハトを見る。私が家を出て駅に到着するまでの間に認識できる数は、明らかにヒトよりもハトの方が多い。圧勝である。

早朝の静けさ、見慣れない道、自分の余所者感。これらの要因から導き出せるのは、そう、「私がハトの国に迷い込んでしまった可能性」である。これしかないだろう。

「またお前はこんなことを言い始めて……」と、もう一人の私が頭を抱えている。ちょっと黙っといてほしい。こんな条件が偶然にも揃ってしまった以上「もしかして……私……ハトの国に迷い込んじゃった……?」と錯覚したくなるのが人のサガってものだろう。まぁ、平たく言えば現実逃避。大人って哀しい生き物だよね。


しかし、もしもここが本当にハトの国だとすると、ハト側からしてみたらヒトである私の方がマイノリティなのだ。日常がひっくり返る。なんだか少しだけワクワクしてこないだろうか。

「飛べない愚かな肉塊が今日も二足歩行で急いでるなぁ」「時間に追われることが多い生き物なのに、まだ飛ぶことが許されていないなんて可哀想にね」とハトたちに噂をされているかもしれない。そんなことを考えながら私はいつもの電車に間に合うように駅まで走るのである。 


                            ◇   ◇   ◇


心が少しだけささくれていた朝だった。駅までの道を歩いていると、カラスとカラスとが激しく争っている。ゴミ袋争奪戦だ。
そう、今日は可燃ごみの日。きっと中身の生ごみ目当てなのだろう。カラスに突かれたゴミ袋の中には、中身がはみ出してしまっているものもあり、道路に広げられた卵の殻や野菜のくず、コンビニの惣菜パンの袋は景観を損なうには十分すぎるほどだった。その景観の悪さが私の心を余計に苛つかせる。

「あんなに汚いものをわざわざ突いて、しかもそれをめぐって争うだなんてみっともない」
心の中でカラスに向かって毒づいた。

しかしどうだろう。カラス界ではそもそも生ゴミが汚いものだという概念が存在しないかもしれないし、寧ろゴミ袋を巡って争うカラスの姿が美しいとされているかもしれない。ゴミを奪い合うカラスたちの姿は熱狂を呼び、オリンピック並みに盛り上がっているかもしれない。(こんな時代になってしまったのでオリンピックに例えてもあまりしっくりこない感じになってしまった気がする。)

カラスにはカラスの美学がある。私にとっては見るに堪えない醜い争いでも、カラスたちにとっては尊いことなのかもしれない。そして、それと同時に私たち人間が美としているものを、(なんなら無意識レベルの習性をも)カラスたちが醜く思っている可能性があることを覚えておかなければならない。そんな気がするのだ。

いつだって自分基準でばかり考えるな。ジャッジを下す側だと信じて疑わないその傲慢さを恥じなさい。偶然人間に生まれたくらいであまり思い上がるなよ。

思いがけず己の至らなさを思い知らされ、居た堪れなくなりながらも「そうだよね。それぞれの価値観があるよね。ごめんね。」と心の中でカラスに謝罪した。ひょっとしたらこの動きもカラス側から気持ち悪く思われてたりするのだろうか……と考えながらも、私はいつもの電車に間に合うように駅まで走るのである。




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