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『倚りかからず』(茨木のり子)読了

著者が73歳のとき、今から20年近く前に出した詩集。

しかし、どうしてこんなにも今聴きたい言葉がたくさん詰まっているのだろうか。買ったのは少し前だけど、ふと何気なく手にとって読んだ今、どうしようもなくこの詩を欲していたように思う。

甘く慰めるわけでもなく、粉骨砕身生きていけと激をとばすのでもなく、静かな怒り、ささやかな喜びをそっと書き記したメモのような言葉たち。それは私の心を決してむつかしくせず、流れ行く川の如くごく自然に染み渡っていった。


ここにある言葉たちは、私よりも遥かにながく道を歩んできた人の言葉だ。そして私の知らない“時”を見てきた人の言葉だ。

あれから、ここから見える景色はどう変わっただろうか。

ビルが立ち並ぶ中を黒い人々の頭が無数に行き交う。自分の持っている思想が誰の思想であるかもわからぬまま、とりあえず電車に乗り込む。そんな日々も今は日常ではなくなり、違和感のある日々が日常になりつつある。あぐらをかいて座っている大人をもうこれ以上見逃すまいと、声を上げる大人が増えた。その大人の足首にしがみつくものは、悪魔か、人か。みな誰にでもやさしいようで、誰にもやさしくない気がする。たぶん、変わったし、変わってない。

この世の中で、コンクリートの上、しっかりと二本足で立っていられる人はどのくらいいるのだろう?

この詩集の中でも、特にタイトルになっている「倚りかからず」は今の状況に対しての悶々とした気持ちに少し爽やかな風を吹かせてくれた。

もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない/もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない/もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない/もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくはない/ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい/じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある/倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ

強いようで、すこし悲しくも思えた、そんな詩は私の明日をこれまたすこしだけ強く悲しく支えてくれることだろう。


今違和感として感じていることをなかったことにしないために、これから私達は足掻き悶ていくのだろう。私がせいぜい生きている間の数十年では結末は変わらないのかもしれない。それでも過ぎ去る風の香りがいつか変わるように願って、淡々と過ごしていこうと思う。

絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい(ハンガリーの詩人/ペテーフィ・シャンドル)

「ある一行」に引用されていた言葉を添えて。

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