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「人格」の居場所〜福田善之『長い墓標の列』について〜

「モデルとした事件は東大経済学部事件であるが、この作品がその事件の劇化ではまったくない。作者は作者自身のことを書くに作者の体験ではない戦前のある現実をもってしたに過ぎない」(作者の言葉 早大劇研公演パソフレット)

社会学者・山之内靖は第二次世界大戦を「ファシズム」と「民主的体制」の戦い、つまり非合理と合理との戦いとしてだけ描き出すことを批判している。むしろふたつの世界大戦において決定的なのは総力戦という枠組みであり、階級社会からシステム社会への移行である。「総力戦時代が推し進めた合理化は、公生活のみならず、私生活をも含めて、生活の全領域システム循環のなかに包摂する体制をもたらした」(山之内靖『総力戦体制』)。

福田善之の傑作戯曲『長い墓標の列』は戦時下の河合栄治郎事件をモデルとした作品だが、その河合栄治郎をモデルとした山名というキャラクターが敵対・葛藤するのは、最終的にはその門下であった大河内一男をモデルとする城崎である。福田善之が河合栄治郎を描く際に、皇道派の蓑田胸喜らを敵(ライバル)として描くのではなく、城崎を選んだのは、一九五七年の作品としては卓見だといってよいだろう。大河内らが主張した「生産力理論」は、「社会政策の対象を人格としてではなく生産要素である労働力として捉え」るものであり、つまりシステム社会理論に足を踏み入れているものだ。そして戦争中の総力戦体制は戦後の「復興」へとそのまま繋がっている。さらに山之内靖のことばを引用するなら、「(戦後の)この民主主義は、戦時動員によってその軌道が敷かれたシステム社会化によってその内容を大幅に規定されていた。ここにおいて実現された福祉国家(welfare-state)は実のところ、戦争国家(warfare-state)と等記号によって繋がっているのである」ということになる。

システム社会のなかで「人格」――これは山名の経済理論の中心にある――は意味をなさない。ひとつの「コマ」に過ぎないからである。山名の説明によれば城崎の理論はこうだ。「国家経済の立場からいえば、労働者はあくまで″物″だ、それが科学だ、メカニズムの要求する合理だ、その認識が、日本を近代化する、戦争は、それを推し進めてくれる。このようにしてだけ、日本は近代化する、前進する(p36)」その理論に対して山名は城崎に最後に問う。「君に、それが見えたか?メカニズムは、それ自身の意志を」と。「人間の努力は、無限だよ、無限大だよ」という山名の信念は茫漠としたシステム社会のなかではむなしく響き渡るばかりである。

ここで疑問が浮かぶ。この『長い墓標の列』の面白さの根底には、理論と人格との相克(さらにそこに社会・歴史を付け加えてもよいが)である。木下順二に倣って福田善之は「いわば自分が自分であるための必然的な行動の結果、自分を否定しなければ成らなくなる」その様を「ドラマ」と呼ぶのだが、そのドラマツルギーと、この作品のテーマである「システム社会」とはどういった関係を結んでいるのだろうか。永遠に負け続ける(そもそもシステム社会の中で「人格」には勝ち負けすらなく、居場所がないのだが)「人格」に観客は遭遇しつづけるしかないのだろうか。菅孝行は『想像力の社会史』のなかでこう述べている。「名せりふの説教、弁証法と自己滅却論( 負けるが勝ち)の密通・ 密輸入、そして「 展開」至上主義――これが戦後演劇のドラマトゥルギーの三種の神器である。『 風浪』は、その基礎を築くテキストであった」。『長い墓標の列』は木下順二『風浪』をひとつの参照項として書かれたと言われているから、この三種の神器がそのまま『長い墓標の列』にあてはまることは不思議なことではない。だが、『風浪』の場合さらなる「弁証法」を期待する前進のドラマツルギーであるのに対して、『長い墓標の列』はタイトル通りに、「弁証法」の無意味さ・崩壊に足を踏み出しているドラマツルギーなのだ。「人格」への期待はむなしい。

「私が、犯人であるとすれば、私は、自分が犯人であることを、自分に引きうけて生きよう、と思うだけです。(長い間)私は、歩きつづけなければ」という城崎の台詞は、自らの行為がもたらす社会的・倫理的責任を背負う雄々しい人間の姿ではない。そのような形でしか「人格」を維持できない無残な姿なのだ。『長い墓標の列』は総力戦体制のなかで生れたシステム社会というテーマに触れることで、「人格」を中心とする近代演劇が崩壊を起こす・起こそうとしている戯曲であるように思われるし、救いのなさという意味で正真の「悲劇」なのである。

「永遠に負け続ける(そもそもシステム社会の中で「人格」には勝ち負けすらなく、居場所がないのだが)「人格」に観客は遭遇しつづけるしかないのだろうか」答えはおそらくイエスであり、もっといえば、「人格」の居場所のなさに、観客は遭遇しつづけるしかない、のであろう。ここに近代劇のアポリアがあるといえば大袈裟だろうか。

※データ
『長い墓標の列』
福田善之(一九三一〜)
初出『新日本文学』一九五七年七―八月号
改稿『新劇』一九五八年十二月号(ぶどうの会上演用台本として)

※資料
・牧野邦昭『新版-戦時下の経済学者-』第四章 思想戦のなかの経済学
高島善哉「生産力理論の課題 : 一つの問題提起」
http://tanemura.la.coocan.jp/re2_index/O/okochi_kazuo.html


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