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今回上演する初演版完全上演の「底本」は?

森本薫の台詞・世界の奇妙さについて(2)具体例を書いた際に、演劇研究者の日比野啓氏よりTwitter上にて指摘がありました。

初稿版は『シアターアーツ』掲載のものでしょうか。だとすると、みなもとごろうが「専門家による高度の筆跡学や文献学的な処理を経なければ不可能である。しかし、今はその用意がない」と書いている点についてどう処理されたのか気になります。

大事な指摘ですので、応答しておきます。

『女の一生』初稿版テキストについて

このnoteにおいて初稿版テキストの紹介をした際に、「初稿版はどこかで読めるの?」において「シアターアーツという雑誌のvol.61996(1996-III)にて『女の一生』特集が組まれ、初稿版が掲載されました」と書きました。現在、『女の一生』初稿版がまとまって読めるのは、たしかにシアターアーツのみです。(牧羊社版『森本薫全集』においては、初稿版との比較が注釈としてついていますが、この牧羊社版は全体としてあまりに誤植・誤字が多くて正確なテキストとしては使うことができない代物です)。

定本とは?

ですが、このシアターアーツのバージョンを「定本」だと考えてよいのでしょうか。まずは「定本」という考え方について簡易的に述べておきます。たとえば宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を考えてみるとわかりますが、この作品は賢治の生前には発表されておりません。そのため、いくつかの草稿を編集者が執筆時期や表記のゆれなどを整理し、全集が出る際などに詳しい注釈・基準などを明記することで、「定本」となるひとつのバージョンを提示するわけです。近松門左衛門や大南北などについても同様にこのような作業が行われています。

『女の一生』の定本は?

『女の一生』には何度も書いてきたようにいくつものバージョンが存在します。そのどれを「定本」とするか、そのことについても議論があります。たとえば演劇研究の井上理恵は『近代演劇の扉をあける―ドラマトゥルギーの社会学』のなかでこう書いています。

初演台本、改訂版、牧羊社版、それぞれの違いが明確化した今、『女の一生』の定本は、森本薫が書いた初演台本としなければならないだろう。

私は森本薫自身が書き直したのですから、初演台本とその後の改訂版(文明社版)の二つのバージョンの「定本」があるとよい、と考えています。

シアターアーツに掲載された『女の一生』初稿版とは?

シアターアーツに掲載された『女の一生』の初稿版は、初演からずっと長年主演を務めた杉村春子氏が自ら保管していた、初演上演時に使用された謄写版台本の復刻です。この台本には初演時に変更・修正があった部分について手書きの書き込みがなされており、その復刻を担当したみなもとごろう氏は「これらの書き込みのレベルを混乱なく整理して読み取り、本文として再現するのは、専門家による高度な筆跡学や文献学的な処理を経なければ不可能である」と述べています。ですから「少なくとも、昭和二十年四月の初演を前にした時点での、一つの意志によって貫かれた汚染のない本文を提供することを目的とした」のがシアターアーツに掲載されたものです。

今回の『女の一生』初稿版完全上演の「底本」は?

「定本」ではなく、「底本」という言葉もあります。いくつかの出版物がある場合に、どの出版物を使用したかということです。今回の『女の一生』初稿版完全上演では、このシアターアーツのものを「底本」としています。

シアターアーツの『女の一生』初稿版は「定本」か?

シアターアーツのものを利用する際に、森本自身による改訂版(文明社版)、ほかの全集などのを参考にいくつかの箇所を訂正しています。たとえば、シアターアーツp96の「章介 さあさあ。そんなに大騒ぎしないで、向うへ行きませう」は、本来はしずの台詞です。初演の謄写版テキストが間違っているのか、シアターアーツ掲載の際に間違いがあったのか、判然としません。シアターアーツの初稿版については、率直に言えば、もっと緻密な検証が必要でしょう。Twitterで指摘をくれた日比野啓氏は続けてこうも書いています

きちんとした手続きを経ていない『シアターアーツ』掲載のものが初稿版として権威を持ってしまうことには危惧を覚えている

たしかにこの危惧はまっとうな意見です。初稿版と謡いながら、どれを「底本」としているか、どのような検証をしているかを明確にしていなかったのは片手落ちでした。

なんにせよ、今回はシアターアーツの初稿版を「底本」とし、注記としてついている杉村春子氏自身の書き込みも参考にした上で、改訂版(文明社版)などと比較し、上演を行います。

明日の11月6日から本番です。ぜひご来場下さい。

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ドナルカ・パッカーン
日本文学報国会による委嘱作品
「女の一生」
―戦時下の初校版完全上演―
作:森本薫 演出:川口典成
2019/11/6-10 @上野ストアハウス
https://donalcapackhan.wordpress.com/


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