かわいくておもしろくてかわいそう
大学時代は映画鑑賞に時間を注いでいた。
コーエン兄弟監督作品は今でも何度もNetflixで再生する。
私にとってこの監督作品が思い入れの強いものになったきっかけとして、「主人公も死ぬことがある」ということ。
おおよそ主人公とは、最終的に幸せになるか、逆境を乗り越えて序盤よりはより良い状態、または何かを獲得してエンディングを迎える。
高校生くらいまでを平凡に生きていて出くわす映画はほぼそんなところであるし、テレビで放送される作品はなおさらハッピーなものや偉大な教訓を含むものが多い。
•『バスターのバラード』が描く不条理
この監督の作品の中にはいつも不条理が横たわっている。所詮、人間の作り出した倫理観では世界は測れないし、どんな偉大な計画を企てていようとも人は突然無意味に死ぬ。そんなことをいつも教えてくれる。
この概念が、不思議と私の生きる上での希望になっている。自分が成し遂げたいことや大切にしていることとは全く関係のないところでびっくりするほど間抜けな理由で死ぬかもしれない。ちょっとおもろない?かわいそう。
偉大なる野望を胸に仕事に励んでいようと、その日寝る前につまんだピーナッツを喉につまらせて翌朝1人で冷たくなってるかもしれない。喜劇?
憎まれっ子ほど世に憚るし、憎まれていない人だって世に憚ることもある。憚らないことだってある。
コーエン兄弟監督作品をみていると、頑張っていようとそうでなかろうと、なんというか、ランダムに死ぬのかもと思う。
•不条理をどうとらえるか
『バスターのバラード』は6つの短編からなる映画である。それぞれの短編の主人公が必ず死ぬということに2話目あたりから気づく。
もうそれからというもの「いつどのようにこの人が死ぬんだろう」なんていう渇望じみた思いを胸いっぱいに抱きながら鑑賞しているのだ。
不謹慎だろうか?残酷だろうか?
しかしこの監督はそういう人々の終わりを悲観的にではなく、御伽噺のようにキャッチーに描く。
もし自分が明日にでも道で蹴つまずいて転けたところに偶然あったガードレールに頭をぶつけて死んだとして。
最終学歴しょぼい大学卒、社会人2年目一人暮らし母子家庭で育った社会的に何も成し遂げていない24歳女性の人生をどう思う?「彼女が生きた意味」を他人が見出すのむずない?
せめて私のこのなんともない自分の人生を、笑ってあげられるようなポテンシャルを自分の中にだけでももっていればいいかなと。
肩の力抜いて、いちいち「人としてこうでないと!」なんて考えることなく、会社で起こしたミスも気負うことなく「ま〜たやっちまったなあ」くらいで。
会社なんかいつ倒産するかもわからんし。出世したとして、だから何?この会社の物差しでは100点だったとして、あっちの会社の物差しでは20点かもしれない。
そんな昇格試験をpassするために勉強する自分を滑稽だなと笑う自分もいる。評価されるために生きているわけではないはずなのに、評価されることで安心しようともしている。
監督作品を通して、つくづく人間ってかわいくておもしろくてかわいそうだなと思うのです。
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