#5最初の問題意識や途中で生まれた疑問点に答える

はじめに

noteを開いていただきありがとうございます。
にーぜろです。

今回は教えるに関する哲学対話の最後として、これまでの哲学対話を通して得られた結論などをもとに以前までに出てきた問題意識や疑問点に答えていこうと思います。

問題意識や疑問点に答える

以前出てきた問題意識や疑問点は以下になります。

  • 定義について(概念の広さ)

    • 1.教えるという言葉音定義が曖昧(人によって教えるという言葉の使い方が違う)

    • 2.教えることがよいとする論者もいればそうでない論者もいる

    • 9.教える目的・内容・方法が千差万別

  • 教えるがもたらす結果

    • (2.教えることがいいとする論者もいればそうでない論者もいる)

    • 4.教えることで生徒の考える力が無くなる(主体性がなくなる)

    • 8.教えることの効果を計測しづらい

  • 教えるとそれ以外の概念との関係性

    • 3.教えるのではなく、生徒が学ぶことができるようにするのが大事という言説 

    • 5.教えると学ぶが二項対立で捉えられているが、本当に二項対立で捉えることができるのか

    • 6.似た単語に教え込みや注入主義などがあるがその違い(境界線)が不明瞭

    • 7.教育という言葉と教えるという言葉の違い

    • 11.他の生物は教えるということができるのか否か

  • 教えることの価値について

    • 10.人間にとって教えるということは必要・不必要なのか、意味があるのか・ないのか


では順番に回答していこうと思います。

  • 定義について(概念の広さ)

    • 1.教えるという言葉音定義が曖昧(人によって教えるという言葉の使い方が違う)

      • a:本noteの見解を基にすれば基本的に知識や情報、技能などの伝達を教えると言うことができます 

      • b:一方で、教育(得に学校教育)においては、上記に留まらない面があり、この点が教えるという言葉が曖昧になる原因ではないかと考えられます 

    • 2.教えることがよいとする論者もいればそうでない論者もいる 

      • a: 知識や情報、技能などの伝達という面は恐らく悪いことではないと考えられます

      • b:一方で、その目的や内容、方法面及び教えた結果において何らかの問題意識が持たれる可能性はあると思います

      • c:この点については、noteを書いてるにーぜろとしては「教え込み」という言葉を使っていつか議論したいと思っています

    • 9.教える目的・内容・方法が千差万別

      • a:特に学校教育において問題になることだと考えられますが、教えた結果しっかりと学んだのか、身についたのかという点が課題となる以上やむを得ないことでしょう

      • b:むしろ多種多様な目的・内容・方法があることにより、より多くの学習者に対して教えることが出来るのだと思われます。(というのも特に方法面において、合う合わないがありますので)

  • 教えるがもたらす結果

    • (2.教えることがいいとする論者もいればそうでない論者もいる)

    • 4.教えることで生徒の考える力が無くなる(主体性がなくなる)

      • a:教え方の問題であると考えらえます

    • 8.教えることの効果を計測しづらい

      • b:目的が多種多様である以上、どうしようもないのかなと。

  • 教えるとそれ以外の概念との関係性

    • 3.教えるのではなく、生徒が学ぶことができるようにするのが大事という言説

      • a:教えなくても学びはあるでしょうが、教えても学びます。特に知識などの伝達という点において。ですので問題なのは教えることではなく、例えば興味のないものを延々と聞かされることや、一斉指導による教授者と学習者にあるギャップの大きさであると考えられます。

    • 5.教えると学ぶが二項対立で捉えられているが、本当に二項対立で捉えることができるのか

      • a:今回のnoteからは何も言えないでしょう。ただ教えると学ぶことが対立することも確かに存在するかもしれないが、そうでない場面も存在するでしょうから、常に二項対立で捉えるのはやめた方がいいかもしれないです。

    • 6.似た単語に教え込みや注入主義などがあるがその違い(境界線)が不明瞭   

      • b:今回は議論していないので回答できません。

    • 7.教育という言葉と教えるという言葉の違い 

      • a:友達同士の教えるなどのように知識や情報、技能の伝達という狭い面を見るなら違いはあるのではないか。特に伝達という方法を通して何かを目指す、ビースタや苫野らの定義を採用する教えるは教育と見分けが付かないと思います。

    • 11.他の生物は教えるということができるのか否か

      • a:伝達と言う面だけを見るなら他の生物も十分可能。

      • b:というよりここからは完全に憶測ですが、生物一般に共通するのが伝達という面だけを持つ教えるで、そこに色々付加価値を付けたのが広い意味での教えるであり教育なのかなと。

  • 教えることの価値について

    • 10.人間にとって教えるということは必要・不必要なのか、意味があるのか・ないのか

      • a:必要でしょう。教えてもらうことなしに色々なことを学ぶのは無理でしょう。特に現代のように情報が大量に溢れすぎている時代においては一人だけではどうしようもない。

終わりに

以上、当初出た問題意識などに回答していきました。

回答しきれないこともありましたが、大方回答できたなと。

この哲学対話では特に教えるという言葉が大きく2つに分かれるのではないかということが見えてきました。

伝達という面にのみ注目した狭い意味での教えるは立場や関係性は関係なく起こること

一方で学校現場における教師が生徒に教えるときに、知識伝達に留まらない何かを目指す面があること

この2つの面があることが分かりました。

当たり前といえば当たり前ですが、こうやって言葉にすると腑に落ちる面もありますね。

また教えると教育の違いについて、前者なら確実に教えると教育が違うものであるということが分かったのは、個人的に大きな収穫でした

皆さんは何か収穫がありましたか?

ぜひコメント名で教えて頂けると幸いです。

ということで最後までお読みいただきありがとうございました。

そして教えるに関する哲学対話はここにて終了です。

またやり直すときが来るかもしれませんが、次回以降はまた別のテーマについてゆっくりではありますが、投稿していこうと思います。

失礼します。

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