参考にする必要はない。
2ヶ月連続で両親が来京した。
8月は前もって予定していたことだったけれど、
9月は色々あり突然決まった話だったので、笑うしかなかった。
現時点で私は無職なので別に迷惑も何もないし、
一緒にいられる時間がただでさえ今はないので、こういう時間を過ごすのも大事かなと思いながら過ごした。
同時に、
その事を誰に対しても強要する人間にもなりたくないとも思ってる。
なぜなら、家族との距離感を決めるのは自分自身だからだ。
「親も歳だし」だと言って、無理矢理時間を作る必要もない。
私は家族とは関係性は完全に崩壊してほしいと願ってたほうだ。
親との関係性が不健全だと気づいたのは15歳ぐらいの頃(もっと前か?)で、しかしその頃はそのような考え方をしている自分が全て悪いとしか思えなかった。
親との関係性が悪いことも割と当然だと自覚したのは25歳ぐらいの頃。そう口に平気で出すようになったころは、「そう思うあなたは悪者」という眼差しや世間体が本当に辛かった。
今はだいぶ健全になってきたと思うけど、距離感や社会の流れが変わったり、自分自身の変化だと思ってる。
たまたま私が関係性が修復されただけとしか言いようがない。ここまでくるのにあまりにも長い時間を使っているし、私がこんなにエネルギーを使う必要も本来はなかったはずだ。
関係が改善されたと言っても、私は過去の「傷つけられた」事実と行為は未だ許せてなくて、ただその人に対して恨みの感情は持たなくなっただけ。今も当時のことを思い出したりもするし、当時の行為は許せてはいない。あの頃もっと人の話を聞ける人間が親だったら、同じように教師もそうであればとしか思っていない。「あの頃あんなことがあったから今がある」という綺麗事には絶対にしないし、そう消費する人がいたら一発殴るだけでは気が済まない。
私は別に自信を持って生きられるようになったわけでもない。自信ないなりに生きていけるという根拠もない自信を持てるようになっただけ、なのだ。
親や先生だとか、周りの大人から、子供の頃にされた「良かれと思った」過度な期待と、そこからくる精神的暴力は別に許す必要もないと思ってる。行為と「人」を分けて考えられるからそう言い切れるようにもなる。それでいながら、「切り離せない」という人物もいるはずなので、そういう人を無理矢理切り離して「罪を憎んで人を憎まず」という考え方に切り替えろとも、強制する必要もない。
無理矢理許そうとすると許せない自分を傷つけるだけだ。
そう思うと、私が一番許せないのは、勝手に世間体を作り上げて「みんなそう思っている」という「家族は何でも許しあう」という幻想と、それを作り上げている世間、同時にそれを宗教のように崇拝する思想。これが土台にある教育はもちろん、世間体や社会保障制度(!)はが恐ろしくてたまらない。何もかも「三頭身以内の血縁の家族」ではないと成り立たないこの制度の恐ろしさ。
私は「お父さんお母さんありがとう」的なお涙頂戴なドラマやアニメはプロパガンダだとしか感じられない。愛してやまない「カムカムエヴリバディ」だって、子どもとのすれ違いのシーンというにはあまりにも残酷な、あの「I hate you」というセリフだって、あれがもしも「お母さんに向かってなんてこと言うの!」という展開になっていれば、たちまち観なくなっていたはず。逆にあれだけ強い台詞があったことに安心感ですらある。
親は恨んではいけない、先生には歯向かってはいけない。そんな「一般的には良いこととされている考え方」から解放された今、根源を思うと、そういう家父長制制度を支えている自民党や公明党、そしてその人たちが信仰している日本会議や統一教会の思想。結局それが今を作り出していると思うと恐ろしくて堪らない。
そう気付けない人たちが、「愛」を持って「そんな考え方はいけないよ」という態度や言動をとることで、一体何万人の人々が心を殺されているのだろう。
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