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アマビエの血酒

 ——半月の光の下、脈打つ一筋の滝。その御前で。どうやら何者かが酒宴を催す。宴で盃を受けた者は、如何なヤマイも跳ね除ける、不死の身体を得られるらしい。

 などという噂が、街をまことしやかに駆け廻った。滝は街の象徴であって、かつて数多の文人墨客ぼっかくに愛された名瀑めいばくであった。故に街の中での拡がりは、SNSの力もあって、凄まじい速度に見えた。一方で街を一歩出ると、途端にその滝の噂は聞こえてこないのである。実際ゲンダイの若者にとって、景勝地などというものは、あまり馴染み深いものでない。しかし、何もそれだけが要因ではなかろう。世界全体が、「それどころ」ではなかったのである。
 その頃、世界は流行りヤマイに侵されていた。白い隔壁で顔の下半分を覆わねば、隣人と気兼ねなく歓談さえできなかった。当然街も例に漏れない。人通りがなくなり閑散とした街で、誰もが堪えていた。誰もが、傍らの人肌、その体温を奪われて。分断を余儀なくされる生活に疲弊していた。唾の飛沫と雑言飛び交う「宴」なぞ、暗黙のうちに御法度である。そんな抑圧ゆえか、程度の多少はあるにせよ、当初この宴の噂を意識する者は街に少なくなかった。ある者は「あり得ない」「馬鹿らしい」と唇を尖らせて言い捨て、ある者は「もし本当なら、許しておけぬ。俺が行って叱り倒してやる」と腕をまくり、息も巻いた。実際、彼らの威勢は殆ど口ばかり、その場限りで。忙しない日々は人々の記憶を朧雲おぼろぐもの向こうへと追いやる。赴いて真偽を確かめようとする者は、いつの間にやらいなかった。

 一人の男を除いて。

 男は街の外れに独り暮らしていた。身寄りもなく、職もなかった。奪われたのであった。定食屋で働いて日銭を稼いでいた男の前に、ヤマイが厳然と立ち塞がった。その災いは、男の生き場を潰してしまうのに十二分な理由だったのである。
 仕事は男の活力だった。父親は男が十五の夏に肝臓癌で他界。母親と男と、弟三人が残された。母親は水商売にその身を落とし、あらゆるものを削りながら日々働いたが、それでも男を大学に進学させる余裕はなかった。高校を中退した男は弟三人を養うために、土木工事の現場に入ったり、寿司職人に弟子入りしたりしようとした。しかし全てに失敗した。男には体力がなかった。諦めも早く、後回し癖も酷かった。どんな仕事場でもすぐ見限られた。ついには母親や弟たちからも「役立たず」と罵られるようになり、男は堪らず家を飛び出した。
 そこで見つけたのが、この定食屋だった。北東の隣街との境。店主とその妻で経営する、小さな定食屋だった。家を半ば追い出される形で出てきたあの日、どうしても腹が減り、匂いに釣られて入った店。襤褸ぼろ切れのような服を身に纏い、肩で息する男を見て店主は、何も聞かず、ただ黙って生姜焼き定食を男の前に出した。代金も受け取ろうとしなかった。感銘を受けた男は、店主に事情を話して土下座して頼み込み。その場で雇われることになったのだ。果たして定食屋は、まったく男の天職であった。男は料理も上手く、定食屋の客と話すのもすぐ慣れた。客の笑顔を見るのが好きだった。客の話し声に耳を傾けるのが好きだった。客の「美味しい」という声を聞くだけで。ただそれだけで。少年時代から鬱積していた〈飢え〉が、些かなりとも和らいでいく気がしていたのだ。
 故に。故に尚更、ヤマイにその仕事を奪われた男は、何もする気が起きなかった。どうして俺ばかりこんな目に遭うのだ。毎夜嘆いて喚いても、全く何も変わりはしない。男は、とんだヤマイによって、己の最後の砦まで攻め潰されて埋め立てられた。
 若い時分、酒を飲みに飲んで、気の置けぬ客と「夢」を語り明かす日も少なくなかった。が、飲み仲間として接してくれる客はもう、男の前に現れない。次第に指の震えが増し。舌も鈍っているような気がして。一時はうら若き乙女の恋情ほどに焦がれていた酒も、たしなむのをはばかるようになっていた。
 あとは俺も、ヤマイで死んでいくのだろうか。このまま店主も奥さんも、ヤマイで死んでいくのだろうか。あの客も、あの客も、ヤマイで苦しんではいないだろうか。そう思うと、もう男は耐え難かった。手足のかじかむ冬の冷気が男の上にぼたぼた降り注ぐ。逃れるべく包まった布団の中で、男は赤児の如く膝を抱え、親指を吸いながら泣くのであった。不安と恐怖が、あの時の母を象って、男をなじっているのであった。
 いつからかSNSは、そんな彼の支えになっていた。日々スマホの画面と睨め合いを繰り返すうちに、彼はたくさんのシンジツを目にした。そして最後に、彼も例の噂にたどり着く。小さな集合住宅の一室に、監獄のごとき息苦しさと惨めさを平生感じていた彼に、この噂はあまりに魅力的だった。男は半月の夜を待った。

 半月の夜の翌朝。通学や出勤のため、街の人々は羊の群れのようにどやどやと駅に向かっていく。その駅の入り口に、男は仁王像の如く屹立していた。男の風貌はさながら人狼であった。血走ったまなこ。剥き出しの歯茎に鋭利な犬歯。襟元まで伸びた顎髭。小刻みに震える手。そして垢で黒ずんだ長い爪。人々は何か恐ろしいものを見てしまったという気になって、咄嗟に目を伏せて通り過ぎようとした。しかし男はそんな群衆かれらひとりひとりを足止めし、語りかけた。支離滅裂な語り口ではあったが、纏めるならばこうなるだろう。
「俺は半月の夜の酒宴でアマビエの血酒ちざけを飲んだんだ。あの滝には本当にアマビエがいる。お前たちも血酒を飲めば、ヤマイが解毒されるのだ。シンジツを見て血酒を飲むのだ。お前たちのために言うのだぞ」
 数刻のちに、群衆のひとりによって男は通報された。警察官が来るのを見ると、男はそそくさとその場を立ち去った。
 それから一週間ほど経ち。滝付近の山中に、女子高生の遺体が見つかった。十日ほど前に捜索願が出されていた少女だった。後頭部と腹部が激しく損壊しており、細く白い首筋にも、縄で括った跡が刺青の如く刻み込まれていた。凶器は発見されなかったが、すぐのちに遺体の肌に付着していた毛髪や体液などの遺伝情報から、かの男が容疑者として捕らえられた。
 男は容疑を認めなかった。それどころか刑事に「嘘ばかり信じるな」などと捲し立てた。刑事が「いい加減目を醒ませ。証拠は揃っている。どうして容疑を認めない」と問うと、男は至極不可解そうに眉を顰めて、こう言ってのけた。
「私は酒宴の主催者に勧められてアマビエを食っただけだ。刑事さん、あなたの方こそシンジツを知らない。目を醒ますべきなのはあなただ。証拠など、いくらでも偽造できてしまうジダイじゃないか」
 男は拘留中、幾度も「シンジツ」と言い放った。しかしその「シンジツ」が証明されることは、終になかった。

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