絵を描くということ、絵を描くタイミング

絵を描いてみようと思ったのは、色々な要因はあるかもしれないのだけど、そんなこんなも含めてそういうタイミングだったのだろうと思う。
写真を撮ってみよう、傾聴をしてみよう、まあ何にしてもそうだけどそう感じるときには、何かそこに引き込まれる意識以前の「ただやってしまう」という必然的な欲求があるような気がしている。
意識以前の欲求ってなんだろうね?
たとえば精神や身体を安定させたりあるいは興奮させたり、緊張させたり緩和させたり、という本能的欲求、、つまり「生きる」ということに繋がっていくのかもしれない。

今回もなんとなく絵を描いてみたいな、と感じてから半年、画材をかってから一ヶ月、実際描いてみたのは、そいういうタイミングに違いない。

もともとは写真の人である。
絵に描くぐらいなら写真で撮ればいいと思っていた。
どれだけ絵でリアルに描いても写真にはかなわない。
写真で絵に書いたように幻想的に写すのもまた楽しい。
創造ではなくリアル現実からの幻想的ってなんかいいじゃない??
まあ、絵を描いていないので比較はできずただの思い込みだったのかもしれないけどね。
とまぁ、いろいろ考えてはいたけど、そうした考え以前に絵を描きたくなった自分が面白い。

実際に描き始める。
なんでもよかったのだけど、とりあえずカラフルな翡翠にした。したのだけど難しい。
難しいけど驚きでもある。
自分のいい加減さに驚いたのだ。
池にいる翡翠を知覚し同定できる。
すぐに見つけることもできるのだが、、、、
いままでいかにざっくりとしか翡翠を観てこなかったか。
いかにざっくりとしか知らなかったか。
ざっくりとした輪郭。
ざっくりとした青とオレンジ。
ざっくりとした嘴。
ざっくりとした光沢。
ざっくりとした顔。
ざっくりとした認識だな。
ざっくりな細部しか見ずに、それを全体として翡翠をみていたのだろう。
ざっくり見てんじゃね〜よ、とチコちゃんに叱られるな、きっと。

あぁ、絵を描くということは細かく鋭くよく観察することなんだ。と初めて知ったわけ。
ただの一色の青ではない背中の青、翼の青、頭の青、、
羽毛の陰影、緑まじりの青。黒が勝っている青。
ただの丸い体でも丸い頭でもない、ただ尖っただけでない嘴。
(もっとも外見だけでもざっくりしか知らないと言われるのだろうが)
光による陰影もこれほどじっくり観たことはない。
観て再現するといことは光と陰影そのものを識ることかもしれないと、絵として自分の手で感覚で再現することで気づく。
これはカメラの力によって再現させることとは大きく違う。
ファインダーを通してのときは、なんとなくざっくり観ていたことが分かる。

絵として表現するための技術や知識というは膨大なノウハウがあるのだろう。そのノウハウは知っているだけではなんともならず、実際の絵に反映する技術が必要で、その技術は際限なく奥深いのだろうなぁ(遠い目)。その奥深さは全く知らない。
それでも、最初の「再現するためによく観察すること」「細部と全体をじっくり見渡すこと」これはまず在るのではないだろうか?
最初のお絵描きでそのことを感じたのは、おそらく写真にも影響するだろうし、結局は写真にかぎらず、絵にとどまらず、何もかもに通じるような気がしている。
そんなこと再認識できるんだなぁ、お絵描きは、、と感嘆している!!

そしてボクの裡のなにかが絵を描きたがっていたのは、まさにそれを再認識するタイミングだったに違いない。


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