8年間、noteを続けてきた理由

少しまえにnote事務局から8周年記念バッジなるものが送られてきた、笑。
純金のリアルバッジならもしかしたら反応するかもしれないが、noteの観念バッジってヤツになんの興味はない。でもね、8年も経つのかぁ〜、とは思う。

2015年1月に登録してから半月ぐらい投稿しなかったので、登録から8周年なんだろう。調べてみると最初に記事を投稿したのが2015年2月10日だった。

もともとは14年ほど「目的」をもって続けてきたブログ時代から交流のある愚慫氏のnoteを読むために登録した。
その頃は登録しなければ、他者のnoteを読めなかったための登録だった。
ある日、ふと、自分も投稿してみようと思った。
ただブログのように「目的」はなかった。
そのように最初の頃は、なんともやる気のない投稿が続いている。

さて、何故noteに投稿しようと思ったのか?また、今投稿し続けているのか? をふと考える。
はっきりした理由は思いつかない。
noteの特徴のひとつである「作品を売る」つもりはない。
(なりゆきで写真集数冊を原価でお分けしたことはあるけど)
「フォロー」や「スキ」の承認を得ようというつもりもない。
写真は観てもらえれば嬉しいし、エッセイを読んで貰えれば嬉しい。
コメントなどいただければ、それはそれは嬉しい。
ただ、それらを得るための努力は皆無である。

8年間地道な努力をすれば、「スキ」なんかはもっと多いとは思うのだけど、ずっと15ぐらいである。
もちろんワタシの写真やエッセイを「好き」と言ってくれれば嬉しい。嬉しいのだが、そうした他者の期待が理由で続けているのかと自問すれば、そうでもない。
しいて言えば、なんとなく続けていて、気づいたら8年も経ったんだなぁ、という感じ。

おそらく「理由」があったら、続かなかった可能性が高い。
「作品を売る」が理由だったら、売れなければ続かない。
「承認」が目的なら承認されなければ続かない。
「他者の期待」が理由では、続くかどうかは他者次第になってしまう。
「続ける」こと自体が目的なんてシンドすぎて続かない。
そうだね、
続ける「理由」があれば、辞める「理由」も生まれる。
続ける「理由」がなければ、辞める「理由」も生まれない、とこんな感じかもしれない。

あらためてフォロイーさんをみてみると、8年の間に多くの人の更新が止まっている。
当時からお付き合いがある人でい今もなおお付き合いがあるのは2〜3人ぐらいである。
その人たちは、ワタシよりもまえからnoteに居た人である。
なんで続けているんですか?
なんてことは訊かないけどね、笑。

あらためて自分を振り返る。やはり解らない。
この毒多というヤツが、なぜ生きて存在しているのか解らない、と同じ感じで、なぜnoteにupしているのか解らない。
そもそも、写真が好きで、そしてテキスト芸人なのだ。
そこに理由はないのである。
写真が好きなのは仕方ないし、テキスト芸人なのは素なので仕方ない。理由はなく好きで〜す、を発芽する場がたまたまnoteだったということだな。
写真鑑賞やテキストを読んでくれる人のためでなく、自分のためにupしている、、ん?、はたして自分のためなのかな?
自分のため、でさえないような気がする。ただ漫然とかな? 宇宙の意志か?
ただ「生きている」ように、ただ写真を撮りまた思索を綴りupしている。
では、「生きている」限り続くのか?・・・それも解らない。

とりあえず、続けている「理由」がないから、続けているんだろう、とは思う。

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