「こうしてみんなで泣いたり、笑ったり、怒ったりできる場所が必要ですよね」と軽い知的障害の女性が言った

東日本大震災のあとの小さな役場の会議室でのできごと。
町の復興のため会議室には役場の人と障害者と支援者が集まっていた。
東日本大震災の震災後、避難所に居ることもできず仕方なく自宅に戻った障害者はだれにも認識もされず放置され、ようやく支援者の力もあり訪ねることができた後の会議室。
町を復興するにあたって皆さんの声を聞きたいという役場の人の言葉に、一人の視覚障害者の男は「なにを言っても無駄だ」とこれまでの辛酸をかみなおすかのように怒りを顕にし席をたった。
そんなことはないです、ちゃんと聞きます、、と引き止める役場の人と立ち去ろうとする視覚障害者の怒り。
彼のなかでは震災以前の役場のなっとくできない対応があったかもしれないし、これまで障害者マイノリティという理由で聞き入れられなかったアレやコレやがあったのだろう。
そんななか軽い知的障害の女性がゆっくりはっきりと言った。

「こうしてみんなで泣いたり、笑ったり、怒ったりできる場所が必要ですよね」

復興という目的の会議のなかでは、あまりにも情緒的でなだらかな言葉。
それでも誰もいなくなった町に息をひそめるようにずっと孤立していた皆の心に届き響いていた・・・

これは過日観た「星に語りて」という映画の一場面。

彼女の言った場所。そんななんの目的も利益もない、ただ心が緩やかに豊かにつながった共同体はいいよね、、、とボクは感じた。

なんだろう、この感じ?ムーミン谷かしら?
でも昔はどこもがそんな感じだったらしい。
家族や村人や行き交う旅人にも友情がめばえ、ゆったりと深く心でつながった共同体が普通だったみたい。
そんな共同体をテンニースという人がゲマインシャフトとよんだそうな。

でもねそんなゲマインシャフトじゃ飽き足らず、いつしか人は目的をもった機能的で合理的なつながりを重要視するようになった。
緩やかな心のつながりではなく、利潤を目的とする会社組織や発展を是とする今の国家もしかり。近代的な都市にしてもそうだ。合理的を目的につくられるよね。
そんな今風のかたちをテンニースはゲゼルシャフトと呼び、時代はゲマインシャフトからゲゼルシャフトに流れていると言ったのはもう随分昔のことだ。

本来、ただ無償に一緒にいられるゲマインシャフトであったはずの家庭なんかも、子どもが将来利益を得るために英才教育をほどこすゲゼルシャフトとなったり、学校なんかもゲマインシャフト的要素はなくなり、利益を目的とした機能的合理的組織となった。
友人グループでいるなんてゲマインシャフトそのものだと思うんだけど、ゲゼルシャフトがデフォルトになってしまった今だと、損得で考える仲間グループができちゃったりしてね。あいつといても得しないよねぇ〜みたいな。

そう、ゲゼルシャフトがスタンダードだね。
どこへ行ってもどこの集まりへ行っても、合理的な進行とちゃんと目的意識をもってことを進めようということになる。
それで全てがうまくいけばいいのだけど、やはり人間の心はそれほど機能的も合理的でも目的的でもなさそうだ。
がんじがらめのゲゼルシャフトでは、心を壊す人が多くいるのが実際なんだな。
それを誰もが感じているから、
「こうしてみんなで泣いたり、笑ったり、怒ったりできる場所が必要ですよね」という言葉が響き同意できるのかもしれないなぁ。

そう今でもやはり人々はゲマインシャフト的な人としての繋がりを求めているんだろうね。傾聴なんてのもゲマインシャフトそのもので、それを求めてくるひとも多いからなぁ。
ボクにしてもゲマインシャフトを求めて傾聴をしているのかもしれないなぁ。


と一応、映画感想録としてのエッセイとしてはここまでです。
ここ以下は愚痴ですorz


さてそんななか、ゲマインシャフトを目的とするゲゼルシャフト的な組織があったりしてさ、そこいると憂鬱になるんだよね。
つまりね、合理的機能的な社会で心を壊した人に、「利害ではないゆるやかで温かなつながり」を感じてもらうことを「目的」とした「合理的機能的な」組織、、、の憂鬱。
いかに悩める人々に効率よく「ゆるやかな繋がり」をもってもらうかを機能的に考え実行しよう、て成り立つの?という悲哀。
ほとんど喜劇であり悲劇だよ。あるいはラプソディ?
そこで組織的なロジックを振りかざす人が、第三者にむけて「ゆるやかで温かな繋がり」をもたせることなんてできるのだろうか・・・・はなはだ疑問であるorz


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