敵だとされても、善く生きたい

まただ、この既視感、いつまでたっても繰り返される。
本当のことを思索し追求することが、この社会の理に沿って生きている人の気分を害する。
「あんたが勝手にそう生きるのはいいが、(したくても出来ない人が)そういう姿を見せられると敵だと思われて損だよ。だからあんたは言動には気をつけたほうがいい、」、と、生涯何度めかの忠告をうけた。
私には他者を批判したという意識も事実もないが、私を理不尽に縛ろうとする。
もう何度も経験したこと。
私を敵認定するのはその者の課題で、私は誰も敵だと思っていない。
忠告の「損をするよ」の損は私の思う損得ではない。
私は、私自身がただ善く生きることだけを考えていたいだけ。
この損得は、忠告の損得とはまったく別の損得なのだ。
だから繰り返し何度忠告されようが、気にしなくていいのかもしれない。
でもね、けっして強くはない生身としては、存在が不愉快だと言われているようで、それなりに落ち込むのである。
多数の常識人のなかにおいて私は「病」なのかもしれない。

こんな時、つい池田晶子の本を手にとってしまう。
アッコの姐御はいつでも私の味方だ。
いつだって力をもらえる。
今回、手にとったのは「魂とは何か」という本。
ちょっと長くなるけど、引用して覚えておきたい。
姐御悪いね、許しておくれ。

 病気というのは、がんに限らず、厭わしい。
 この社会、とくに現代社会というのは、生者だけの世界である。そして、生者というのは、この場合、労働と娯楽に参加できる者、すなわち「健常者」の意だから、病人というのは、じつは半分は死者なのである。居ないに等しい者なのである。
 病気の厭わしさは、病気自体の厭わしさや、死への怯えと同時に、社会からのこの疎外感、落伍感としても感じられているだろう。
 けれども、それが、なんなのだ
 私は、そう思う。自分の人生における労働と娯楽、それはなんなのだ、それを内省する機会を、その病いこそが与えてくれるはずだからである。健康な時には、労働と娯楽の価値はあまり自明なので、人は考えない。
 肉体が自然なら、病気とて自然である。病気を排除する社会は、したがって不自然である。不自然に従って生きる人生が幸福であるかどうか、病んで老いて死ぬ時になって初めて気づくなら、気づきは早いほうがいい。
 生きることそれ自体が価値なのではない、善く生きることだけが価値である。……

あれれ、もしかして今は健常者である私は自ら「疎外感・落伍感」を感じて病になろうとしているのだろうか?
病にならなければ自明なことを考えられないからか。
不自然な社会にあわせるのは辞めて、病として思索して生きるようとしているのだろうか?
そんなことをしなくても、思索しようとすれば思索できるはずだ。
思索するために、病であるとか、疎外感・落伍感を感じる必要はない。
自明で思索するのが困難なとしても、やはり思索すればいいではないか。
思索し、ただ善く生きることを自覚的に生きればいいはずだ。
私個人としてはただそう生きればいい。

うん、他者に敵だと思わせるような雰囲気を滲ませなくてもいいはずだ。
私が意識しなくても、敵だと思わせる何かが滲みでているということはなんなのだ?・・・なぜ、こうたびたび指摘されるのだ。
もしかしたら無意識のうちにわざと挑発しているのかもしれない。
人は社会のなかでしか生きることができないなら、不自然な社会の理に従って生きる人が多数ならば、やはり生きづらい。
誰もが善く生きるなら、そうした社会は自然になり生きやすくなる。

アッコの姐御も自分だけが善く生きるならば、著作などで「生きるとは」などと問いかけなくてもよかったのだろう。
この「問いかける」ことこそ姐御の「善く生きる」だった。
やはり姐御のチルドレンとしては、自ら思索しつつ問いかけるしかないな。
たとえ多数に敵だと思われようとも。

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