レッテル大魔王

場末の呑み屋に久しぶりに行った。
結構頻繁に通っていたのだが急に行く気が失せていかなくなった。
その呑み屋はほぼ常連客で満員になりほとんどの客は独りで暖簾をくぐり呑む。独りで行くのだが、お互いにほぼ顔見知りで空いていた席の隣りと話をしながら呑む事が多い。
客もいろいろだ。
会社を引退して暇を持て余す老人も多そうだが、精力的に老後を楽しんでいる人が多いのかな。もちろん現役サラリーマンもいて、有名“オペレーション”外資系から別の有名”探り”外資系にヘッドハンティングされたという年俸4桁万円という青年から、苦労をかさね会社重役というこれまた年俸4桁万円の歳の同じタメ男。この街に何軒も店をだす居酒屋チェーンの社長から、この街の不動産のドンという老人、出張自転車屋、草野球オヤジ、この街の芸姑界のパトロン、超美人ジャズシンガー、ホステスやら主婦、右翼ジジイから左翼ジジイ、ネトウヨ・サバゲー青年から自称22歳の少年、有名デパート紳士服売り場やら、医者から薬剤師から整体師から土建屋からバーテンダー、農家やら、呑んだくれやら、説教社長やらOLやら、、、やらやら
坩堝でありカオスである、、、嘘だな、何かしら統一感がある。ボクを除いては、、、ね
とはいえこれだけのカオスだと、通り一遍の話は面白い、、しかしやがてリピートになる。
酔っ払いはエンドレスである^^;
ボクも酔っていなければ、話を聞いて「ふーん」と頷づいていた。
政治談義や経済談義には、主張する酔っぱらいに合わせて「普通に」気の利いた質問をしていたりしていたのだが、、、
酔ってしまうとだめだな、「普通に」理解不能のちゃちゃを入れてしまう、、共同幻想だの、隷従だの、、、、
ちゃちゃを入れるのさえうんざりするようなゴルフやら野球やら三面記事的な話題はちゃちゃさえ入れなくなった。その上で自信満々の自慢話やら最先端の世相やら渡世術のお説を聞くのが面倒になったというのが本音。
ボクが傾聴なんてのを始めてしまったことがあるかもしれない。
泣き崩れる話し手の発話のほうがずっと、、おも、、しろ、、、語弊があるので言葉にしにくいのだが、傾聴側のボクの裡にある振動が興味深い。揺さぶられている感覚が新鮮である。
そして同類だと感じる。
異端感がない。
突き抜けろ!!

そんなこんなで、場末の呑み屋にもかなり長い間いってなかった。
マスターもママもとてもいい人で店を離れてもよくしてもらったりしていることもあり、あまり時間をおいて縁が切れるのもなんだかなぁ、ということで久々に行ってみた。
それなりの間「欠席」していたことが話題になっていたようで、暖簾をくぐるとすぐに席をあけ、招き入れられたのが年俸4桁万円のお二人。もともと年が近いこともありよく隣どうしのカウンターで呑んでいたし、普通の世間話をしている限りは普通に楽しむことができる。
まあ楽しみながらビールを呑んでいた。ボクの仕事がうまく行ってないという話の流れから重役のタメ男さんが「おれはオマエよりずっと苦労をしている」と言った。
どうやら彼は苦労のしてきたからこそ今の彼の役職と収入があり、ボクは苦労が足らないから仕事がうまく言ってない、と言いたかったようだ。
もちろんボクは否定しない。否定しないのどころか、まったくその通りだと思う。だからつい「だって苦労したくないもん」と言ってしまう。
これがまた面白くないようだった。苦労してきたと自負のある者にとっては、何を言っているだこいつ、てなもんだろう。でも、彼が苦労ののち手に入れたものも、、、ボクにとってはつまらない。
ボクにとってつまらないことは、彼が気にする必要はまったくないのだが、つまらない、という感じが伝わることは面白くなにのかもしれない。というか、そも世間にとっては「苦労」は美談であり、当然の経過点らしいことを今更ながら思い出す。
ボクは少し申し訳ない気持ちに、、、は、ならないんだけどね、笑

おそらく彼は日本社会的な成功者なんだろう。
ここ数十年の日本という社会システムに乗るために「苦労」をして、社員から一目おかれる役職の席に座り、高級な酒とゴルフを楽しみ老後不安のない貯蓄をして今を楽しんでいる。
彼だけじゃない、この場末のカオスにいる雑多な社会人の多くもやはり「苦労」をしてきて自負と自信にみちた成功者にちがいない。
あ、ここなのだな、カオスな呑み屋のなかで統一感があるのは。ボクを除いてね、、、笑
普通の多数は、この日本の社会システムに順応するために「苦労」して、社会的な成功を目指しているのだろう。
ボクはいつからか、そこから「一抜けた」したのか、それとも「しきれていない」のか解らないが、すくなくとも呑み屋では「浮いた存在」だったに違いない。
「普通に」苦労したというのはそうしたことであり、ボクは苦労してこなかったし、楽しいことしかやりたくなかった。いつかはシステムに則った仕事が破綻するのは当然なのかもしれない。だって、苦労も多忙も嫌だしそこを強いられる仕事なんてクソ食らえなんだも〜ん。

苦労した成功者からは、自分勝手で好き勝手やってりゃ身を持ち崩すのも仕方ないだろ、という(この世的な)レッテルを貼られるのは当然のことである。でもそのレッテルがボクにとってはシステムに洗脳されなかった名誉なことだとさえ感じている、、、ということは多数には解ってもらえないのだが。
とはいうものの、noteなんか見つめていると上には上がいる。〈レッテル大魔王〉という名誉を贈りたくなってしまう。つい憧れてしまう。そしてボクなどまだまだだなぁ、、とじっと手を見てしまうのである。


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