「書く」ということ PASSAGE日記 #6
Wordの空白の画面を見つめて呆然とした。
書けない。書きたいことが全くない。
幼稚園生の時に日記を書きはじめたことを皮切りに、私の人生には書くことが当然のようにあった。夏休みの読書感想文の宿題や大学のレポート課題でなくとも、私は断続的に文章を書き続けてきた。書くことはいくらでもあった。
Wordが一文字も埋まらなかった時、認めざるを得なかった。
搾り出そうとしても私に書きたいことがないのだ。今の私はそんな状況なのだと。
以前の私はどのように文章を書いていたのだろう。それすらよく思い出せないが、その時の感覚を必死に思い出してみる。
頭の中にぐるぐるとある考え、それらは整理しきらず、散乱し、かといって私を混沌の底へ追いやらない。緩やかなマグマのように波打ちながらあり続け、何かを契機にわっと吹き出でる。
最近読んだ本、昨日見た映画、数年前の友人との会話、先週見たニュース、兼ねてより引っ掛かって忘れられない情景。それらがパチっとピースにハマり、全く異なる事象が一本の矢で貫かれ、文章が書かれていく。
パチっとピースがハマったその後、私がどんなディテールを書きはじめるのか、私自身も十全に把握していない。
書きはじめると、それは流暢にスムーズにいく時もあれば、鉄のシャッターが降りてきて一歩も進めなくなる時もある。さっきのあの万能感はどこに行ったんだよと自分に突っ込みながら、何かが違う、けれどもそれが何かがわからない、でもこれではダメなことはわかる。
筆が進まない時の焦燥感。けれども書くことの輪郭が浮かび上がってきた時のあの喜び。気づいたら日付を跨いでいることも多々あり、時間を忘れて没頭していた。
私は文章を書くことが好きだった。
もちろん知っていたつもりだった。
でも本当に好きだったのだといい歳をするまで本当に気づかなかった。
文章を書くということは、あまりに当たり前のように私の人生にあり続けたことで、それがどれほど貴重で、自分にとって大切なことだとは理解せず、軽んじていた。
書くことが枯渇した空っぽの自分に呆然とし、今までのツケを支払っているのだと思い知る。豊潤さが枯渇し、自分がひどく薄っぺらい存在になってしまった気分だ。