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もう読むことのない村上春樹(村上春樹『街とその不確かな壁』)

村上春樹の新作が出たらしい。
壁が出てくる物語のようだ。
「読んでみようかな」と思った自分に、私はひどく驚いた。

私と村上春樹の出会いは幼稚園生の頃。
当時、母が狂ったように村上春樹を読む耽っていた。読み耽るといっても自堕落なものではなく、10分しか乗らないバスに座った瞬間本を開き、読みたくて堪らないという必死さに、私は「本ってそんなに面白いの?」と訊いたらしい。私の記憶には残っていないけれど。

母の村上春樹熱の反動か、私は村上春樹をそれとなく避けたまま高校生になった。
避けてはいたものの、当時、村上春樹の新作が出ると話題になったので、よい機会だと思って読みはじめたら、母と同じように、明けても暮れても読む耽っていた。
新作も面白かったが、デビュー作を含む初期の作品に夢中になった。母一押しの『ノルウェイの森』には複雑な感想を抱えつつ、ちょっと毛色の違う『スプートニクの恋人』がなぜか好きだった。白髪のシーンがやけに印象的だった。あれがなぜ好きなのか、私は今もわからない。私の村上春樹熱は大学入学前がピークだったと思う。

大学卒業後、私は親しい友人と大阪で会った。久しぶりの再会だった。
私は大阪に出張で行き、友人は仕事の都合で大阪に暮らしていた。奇跡的にタイミングがあったので、一緒に学生生活を過ごした土地から離れたこの街で私たちは急遽会うことになった。

友人は別れ際に「そういえば『1Q84』読みました?」と訊ねてきた。
その頃、『1Q84』が発売されてしばらく経った時期だった。
「まだ読んでいないんだよね。読んだ?」
「読みました。あなたによく似た人が出てくるから、感想を聞きたいと思って。読んだら教えてください」

多少含みがある言い方な気がしなくもなかったが、私は友人と梅田駅で別れた。
出張から帰ってきて、私は『1Q84』を読んだが、読んだことは友人に知らせず、今度会った時に話をしようと思っていた。
友人が私に似ているといった登場人物はなんとなく推察できたが、「私はあんな人間じゃない!」と抗議をするつもりだったが、その機会は永遠に訪れなかった。

友人は突然亡くなった。
大阪で別れ際に『1Q84』の話をしたことが、私たちの最後の会話になった。
あんな他愛もない会話が、最後となったことに私はひどく打ちのめされた。
友人から投げかけられたそれに私はこたえることなく、その機会は永久に失われた。

『1Q84』以降、村上春樹は新作を発表し続けている。
風の噂などではなく、新刊がこれほど賑わう作家は他にいないだろう。
村上春樹が数年おきに新作を発表していることは知っているが、私はどうしてもそれを読む気にならなかった。

単に好みが変わったのか、友人のことがあったからなのか、それは本当にわからなかった。

ひとつだけメッセージを言わせて下さい。個人的なメッセージです。これは私が小説を書くときに、常に頭の中に留めていることです。紙に書いて壁に貼ってあるわけではありません。しかし頭の壁にそれは刻み込まれています。こういうことです。

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?

村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵 – Of Walls and Eggs」

今回の村上春樹の新作は壁をめぐる物語らしい。
私は2009年に村上春樹がエルサレムでした「壁と卵 – Of Walls and Eggs」のスピーチを思い出した。
当時、私はあのスピーチに興奮し、感動した。私も卵の側に立つものだと信じていた。
あれから十五年弱。

私は友人を亡くした。それ以外にも、随分と色々なことがあった
もう村上春樹の新作を読むことはないのだと思っていたけれど、もしかしたら私が読む日が来るのかもしれないなと思った。

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