河野啓『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』

読む前から想像はしていたけれど、なんとも後味の悪い読後感であった。それも含めて、今この時期に読んでおいて良かったと思う。

そもそも、栗城氏は「登山家」と言えるであろうか?あくまで個人的な考えではあるけれど、虚偽や単独無酸素の定義などの論争部分を横に置けば、単純に彼の登山歴は「登山家」と呼ばれるに十分値するものだと思う。だが同時に、少なくともある時期から彼は「登山愛好家」ではなかった。残念ながら、本書を読むとどうしてもそう感じてしまう。
それを前提にすれば、彼は、登山家として、頂に立つ事で内側から湧き上がる感動を得ることや、そこに至るまでのプロセスを自発的に表現するのが目的ではなく、登山という行為を媒介とし、何か別のものを表現、あるいは達成しようとしたのではないか?
あくまで単純化して言えばだが、褒められたい、注目されたいといった他者への承認欲求のようなものか。そこまで単純なものではないた信じたい気持ちもあるけれど。
もちろん僕自身偉そうなことは言えない。いいねの数を意識してSNSに投稿するなど僕を含め誰でもやっていることだ。
しかし、彼の悲劇は、その道具として、最も死に近いアクティビティの一つである高所登山という行為を選択してしまったことだろう。

本書とは関係ないが、ビデオニュースという配信サービスのマル激という番組内で、ゲストである哲学者の内山節氏が、「私の一番嫌いな言葉に自己実現というものがある。」とおっしゃっていた。それに被せて、ホスト役である社会学者の宮台真司氏が、視聴者に対し「いいですか皆さん。よく考えて欲しいんですよ。実現しなきゃいけない自己っておかしいでしょ。自分の価値は実現しなくてもあるじゃん。自分の価値は実現しなければないって、全く突拍子もない妄想だよね。誰かに思わされてるに決まってる。」とおっしゃった。

誰かとは何者か?
やはりそれは、社会であり、それを牛耳るなんらかの圧力、体制、権力といった類であろう。
つまり、他者への承認欲求とそのための自己実現とは、そう言った類のある種の意図的な力によって作られたシステムによびかけられたものと言えるのではないか。
その意味では、栗城氏は、この社会の要求に応えることによって生まれた被害者とも言い換えることができる。

問題は、栗城氏は、突然変異的に現れた特別な存在なのか?あるいは、既にこの社会には、栗城氏と同じような人々が多く存在し、栗城氏は、たまたまメッキの剥がれた場所から偶然顔を晒されてしまった一人に過ぎないのか?僕自身が、そしてあなた自身が既に、栗城氏と相似形の一人になってしまっているのかもしれない。

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