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葬式で

今年5月末に母方の祖母の葬儀があった。
たまたま自分の主催イベントの前日の深夜に亡くなったため、慌てて派手なネイルをオフしに行ったり諸々の支度を済ませて翌日バタバタと実家に帰った。

母親からはこじんまりとした家族葬だときいていたが、実際は噂を聞きつけた親戚縁者が20人は押し寄せていた。用意した仕出し弁当も足りず、気まずい感じになった。

祖母は、生前水墨画の先生をしていた。
公民館や病院、檀家のお寺などに50号とかの大作をしばしば寄付していて、地元の公共性の高いいろんな空間に祖母の絵が飾ってあった。
私が小さい頃はそれが誇らしかったものだが、今考えると作品を一方的に「寄付」していただけなので、人気者だったかと言われると難しい。額装や搬入業者も自分で手配していたようなので、金を払って自己実現しているようなものだ。公募展の賞金や講師の収入などもあったはずだが、基本的には年金暮らしだし、そういう欲はあんまりない人だったと思う。でも死んだら葬式はキャパオーバーになったし、祖母の葬儀からプロップスは一方的なgiveから得たコネで買えることを私は学んだ。

「人は誰でもその生涯で15分だけは有名になれる」とはアンディ・ウォーホルの名言だが、葬式や結婚式は15分だけの名声を「買う」ような行為だなと思う。
資本主義のシステムのもとでは、金で承認が買える。自分がやってる主催イベントだって極論同級生を全員ゲストにすれば埋まるし、自分に足りないものは自腹を切る覚悟だけだったような気もしてきた。自分には、giveが足りない。損しなきゃ掴み取れないものがある気がする。それがなんなのかはまだ分からないけど。

私は、ミュージシャンとかが死んだ日に、その日だけは生前の成果について賞賛の意見がSNS上に溢れかえることにどうしようもない虚無を感じてしまう。
現代のミュージシャンは人気の絶頂を迎える前に死に、死後にSNSで絶頂期を迎えている気がする。皮肉にも、訃報は最大のプロモーションだからだ。自分はマジでそうはなりたくない。死んで即みんなに忘れられていい。絶対どう考えても生きてるうちだけなんか言われたい。
うまいことgiveをやっていくのは大事だけど、結局身内ばっかりに褒められて死んでから葬式で絶頂を迎えるような人生になってしまうのかもしれない…。むずい。やっぱよくわかんねえ…。
少なくとも、私は祖母の「新潟県のとある自治体の画壇での身の振り方の成功例…」みたいな狭い世間で上手くやれる人間じゃないからこうなってるのではないか。

というかそもそも、我々の老後では年金暮らしをして創作活動でgiveしまくるというライフスタイルが不可能ではないか。どうせこれから先は年取っても働かなきゃいけない時代が来る。悔しい。
祖母は、「本当に好きなことは老人になってからやりなさい。若いうちは出産とか子育てとか、肉体的に若い時にしかできないことをやりなさい。」みたいなことをずっと言ってる人だったけど、これからの自分たちの老後にはそんなゆとりがあるとは思えないし、結局若さを消耗するしかねえじゃんか。
「表現をしたい」そして、「表現で承認されたい」。この類の欲望をどう消化するか、という人生の課題においても我々は社会構造の上で踊らされることになるのだ。

ここからは少し祖母の話をしよう。
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