酷な質問

「お子さんがどんな大人になると思いますか?なってほしいですか?」

と、ある場所で問われ、心の底から怒りそうになった。普通の質問に思われるかもしれないけれど、発達障害(疑い)の子を育てる親には、酷な質問だと思う。主語が大きすぎると言われれば、すみません、だけれども。

私は妻と、この気持ちを「鉛」と呼んでいる。

人間だから、私と妻はどうしても「普通」をイメージしてしまう。それに縛られている。子の障害疑いが分かるまで、まさに普通に、我が子の将来を勝手に想像していた。思春期には父親はウザがられるんだろうな、とか。どんな仕事に就くのだろうとか。

でも、そういう親の空想は、この発達が予測可能な関数だから成り立つこと。y=axの式が変質するか、そこに投入される変数が見たことも聞いたこともないものになるなら、想像なんてできない。

だから私は、子の将来の姿はイメージできない。あまりにも幅がありすぎるから。そして、まだまだ親として障害に対して無知だし、経験もないから。

それをどうなると思うか?とか、どうなってほしいか?とは。少なくとも父親としての私にいまあるのは、この子が一歩一歩、どう発達していくか。どうやって力を伸ばしていけるか。あるいは楽しんでいけるか。それだけ。私が持つ松明は、ほんの足元を照らすだけで精一杯。なのに遠くの闇を見通せますか?と聞かれて、そこに抱くのは月並みな言葉で言って、絶望しかない。

これは、障害があると不幸だとか、そういう次元の話をしていない。ただただ、先のことは何も見えませんという話です。

だから、本を読んでいるとも言える。本の中にはたくさんの「先輩」がいる。その通りに我が子がなるわけではないけれど、松明を持って先を歩いた人たちの体験談に耳を傾けられる。それが嬉しい。

たとえばこの本、『発達障害児を育てるということ』はまさに、私たちより先に親になった柴田さん夫妻の等身大の言葉に出会える。


イメージはできない。でも、現実に歩いてきた人がいる。その人の歩みに勇気付けられて、私も歩き出す。それが今親としての、精一杯です。

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