わたしのおやつを誰かが食べてくれるーミニ読書感想「ライオンのおやつ」(小川糸さん)
小川糸さんの「ライオンのおやつ」(ポプラ文庫)に胸を打たれました。2019年の作品で、今年(22年)10月にポプラ文庫に収録。通勤電車で読み、ふいに涙ぐんでしまった。人生で最も思い出深いおやつのリクエストを受け、再現してくれる「ライオンの家」というホスピスを巡る物語。涙が込み上げたのは、その至上のおやつを「食べられなかった」シーンでした。
主人公は、30代でがんに見舞われた女性。懸命に抵抗したものの末期まで進行し、最期は穏やかに過ごしたいと決意した主人公は瀬戸内海のとある島に所在する「ライオンの家」に入居することになります。
「ライオンの家」では週末、ちょっと変わった催しがある。それは入居者が人生を振り返って最も印象深いおやつのリクエストを用紙に書いて提出し、それを料理人が再現、入居者全員で味わうというもの。
何が変わっているかと言えば、どのおやつを食べるのかは抽選で決まるということ。つまり、入居者の死期とは関係ない。普通であれば、死期が近い人からリクエストを受け入れそうなものです。そうでなければ、せっかくのおやつを気持ちよく味わえないかもしれない。さらには、リクエストしたのに食べられないまま人生が終わることも考えられます。
まさに、その想定したケースが起きるのです。しかしそれは起きてみれば、決して「最悪のパターン」ではなかった。
入居者に「マスター」と呼ばれる男性がいました。その名の通り、喫茶店のマスターを務めた男性で、体調の良い時は入居者やスタッフにコーヒーを振る舞います。主人公も「ライオンの家」に来た直後、マスターのコーヒーを飲み、ほっと心が洗われる。
そのマスターが亡くなった後。おやつの時間の抽選で当たったのは、マスターがリクエストしたカヌレでした。マスターがカヌレの思い出を語ったリクエスト用紙が読み上げられます。しかしスタッフ(下記引用箇所のマドンナ、がスタッフです)は最後まで読み切らずに終わります。
マスターのおやつだと言われなくても、誰もがマスターを思い浮かべるおやつ。そしてまるで、マスター自身も、まるで自分がこのおやつを食べられないことをわかっていたかのようなリクエスト用紙。
自分はなぜこのシーンで涙が込み上げてきたのか、すぐには分かりませんでした。読み終えてしばらく経ち、たぶんマスターの生き様と、最後のおやつへの向かい方が、理想的な「人生の閉じ方」に思えたからではないかと感じました。
最後のおやつは一見、自分の人生の最期を彩るように思えます。悔いを残さないよう、もう一度食べたい思い出。
しかしマスターは、まるで自分が食べることは度外視するかのようにリクエストしている。少なくとも、食べられなくても不思議ではないと思って書いている。そして「自分以外の誰か」がおやつを食べるに際して、なぜこのおやつを選んだのか、自分の人生に何が起こったのか、分かりやすく説明している。
そんなおやつを食す主人公たちはふいに、マスターの生きた姿を思い出すのです。ほんの少ししか、しかも人生の最期に出会っただけのマスターの、生涯に思いを馳せるのです。
自分のために用意されたおやつを、誰かに「バトンパス」するためのものだと考えられる。そして、そのバトンを受け取ってくれる誰かがいる。これ以上の幸福はきっとない気がしたのです。
日々の生活で目にする幸福は、多くが順序立っています。就職し、恋愛し、結婚し、昇進し、資産を築き、健康に老後を迎える。でも、人生は本当は、ままならない。順序が乱れ、逆転するのが実相でしょう。リクエストされたおやつが死んだ後にしか出されないというのも、本来は順序の逆転です。
でも本書は、人生のままならないシーンをこの上なく幸せに、充実して描いてくれた。そのことに心がふっと和らぎ、涙が込み上げた気がするのです。
つながる本
正確には「つながりそうな」本ですが、山本文緒さんの「無人島のふたり」(新潮社)に関連を感じます。過日旅立ってしまった作家の山本さんが、人生最期の日々を綴った日記だそう。「ライオンのおやつ」を読み終えた心を携えて書店にいったところ、思わず手に取ってしまいました。
人生を描いた本を読むたびに思い出すのが、ジェイムズ・リーバンクスさんの「羊飼いの暮らし」(ハヤカワ文庫)です。英国の伝統的羊飼いになった男性の話。人間よりも大きな自然、歴史の「鎖」につながることの幸福を学べます。
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