わたしたちだけの幸福論ー読書感想「ふたりぐらし」(桜木紫乃さん)

家族に正解なんてないと言うけれど、模範解答ばかりが目についてしまう。桜木紫乃さんの小説「ふたりぐらし」は、優しいけれど力強く、こたえは自分たちで見つけていけばいいんじゃないかと語り掛けてくれた。

(新潮文庫、2021年3月1日初版)


うまく説明できない幸せ

主人公は結婚したばかりの夫婦。夫は映写技師(映画のフィルムを回す裏方)だけれど、フィルム映画下火の昨今はほとんど仕事がない。だけど、脚本家の夢を捨てきれず、ほそぼそと作品投稿に取り組んでいる。だから生活は看護師の妻が支えている。困窮もしていないけれど、楽でもない。

夫は一般的に言えば「ヒモ」だ。実母にも言われてしまう。「それって、ヒモって言うんじゃないの?」

それは妻も分かってる。夫本人も分かっている。

外形的に見れば、妻は甘いのかもしれない。夫はだらしないのかもしれない。二人は大人として間違っているのかもしれない。文中からは、世間から白い目で見られている実感があることがひしひしと伝わる。

それでも、お互いを愛している。

妻が「それってヒモなんじゃ」と言葉をぶつけられ、ささくれた心で帰ったシーンが好きだ。夫は水餃子入りのスープを作っている。

 うんーー出会ったときからこの声が好きだった。耳と心にやさしくて、押しつけがましくない語調と絡まりあうと、ずっと聞いていたくなる。(中略)そしてまさにこの、過剰な言葉を欲しない生活の静かな幸福感が、母に上手く説明できないのだった。(p47)

愛する人の声が全ての不安を吹き飛ばしてしまう。

そして、その幸せの形はうまく説明できない。

たしかにこの幸せは、依存と紙一重なのかもしれない。たとえば夫の欠点がDVであれば、物語は途端に暗転する。その点に注意は必要でも、全ての欠点をたった一つの魅力が裏返してしまうことは別に、悪くない。

そういう幸せがあるということを、この物語は200ページ超の間全力で、懸命に語ってくれるのだった。


欠けているからこそ足りていること

主人公夫婦の周囲には幾人かの「ふたり」が出てくる。夫側の母と、亡き父。妻側の父母。お隣の老夫婦。主人公がお世話になる作家とそのお見合い相手。

どのふたりも、実はそれぞれに欠けていることが描かれる。何かを失った経験。相手にも言えない秘密。会えなくなってからの時間。

彼らと接する中で、主人公夫婦が確かに勇気づけられていく様子がわかる。淡い情景として描かれる。

欠けていることは、悲しいことではないかもしれない。欠けているからこそ、思いを馳せることができる。心が満ち足りてくる。このことが本書の主題になっているような気がしている。

物語の終盤で、主人公夫婦の夫が涙するシーンがある。

 今だからこそ、こんなにあっさりと涙が出てくるのだ。なにもかも遅いからこそ、安心して思い出すことがある。泣いて今日を洗い流すくらいに時間は経った。(p245)

このほんの1パラグラフが、とても美しいと思った。「今だからこそ」と「あっさり」。「なにもかも遅い」と「安心して思い出す」。「泣く」と「洗い流す」。ものごとのどうしようもなさ、やりきれなさと、そこから生まれる豊かさが、鮮やかに対比されている。

このことに人生を生きる中で気づけた夫は、きっと幸せじゃないか。そしてそれは、傍らに寄り添ってくれる妻がいたから見出せた幸せだ。

自分なりの正解を探すというと、陳腐だろうか。でもこの小説は、自分なりの器には、自分だけの雫が満ちていくことを信じさせてくれる。


次におすすめする本は

常盤新平さん「片隅の人たち」(中公文庫)も同じように、心にふっと風を吹き込んでくれる作品でした。戦後社会の日陰で生きていたSFやハードボイルドの翻訳者たち。片隅に生きることもまた、不幸ではないと教えてくれます。

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