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すれ違う「ごめんね」と気持ちのこと

僕は人と揉めた時、どちらかというと早めに謝る方だ。

なぜかというと状況の整理は割と得意な方なので、自分の悪かったことについてはすぐに気づくから。

そして謝る時は、その相手に自分がなぜそういう行動や言動になってしまったのか、客観的に説明するのが筋だと思いこんでいた。「そういう言動や行動をしちゃったのは、こんな状況だったからなんだよ」という感じで、相手に自分のことを理解して欲しいがために。

でもそれはすべて自分都合の言い訳で只のみすぼらしい自己防衛なんだと、最近大切な人に見透かされて、自分が恥ずかしくなった。

たとえば事故で怪我をした人が、事故を起こした加害者からその時の状況を客観的に説明を受けたところで、はたしてその傷や心が癒されるだろうか?

そんな当たり前ことに気づくのに何十年もかかった。それはまるで、ふと気がつくと周回遅れのレースの一番後ろを裸で走っているような惨めな気分だった。

そういえばこれまでの人生の中で何人もの人に謝ってきたけれど、果たしてどれだけの人が心から許してくれたのだろうか。

そして昨日の夜は、これまで謝ってきた相手の気持ちと、自分の「ごめんね」がすれ違った距離のことをベッドの中で考えながら、そのうちに落ちた浅い眠りの中でなんだか居心地の悪い夢をみたのを覚えている。

そしてその次の朝、これからの「ごめんね」には、ただただ相手のことを思う気持ちだけを込めていこうと思った。


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