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プロフィール代わりに

まずは、どこかで書いた記事の転載(初出は明記。読み直して変な文章や事実関係の誤りなどがあったら改稿して載せるつもり)を基本にしようと思うので、しばらくは自分自身のSNSでもほかのところでも、このnoteのことはとくに宣伝しないで、ひっそりとはじめるつもりです。
以下は、「原発のない未来へ」という出版労連(日本出版労働組合連合会)が毎月出していた機関紙に原稿を書き、その後、『原発のない未来へ2 私たちは忘れない』(出版労連発行)というブックレットに一部改稿して転載した記事(どっちもタダで書いた原稿)。全部読む人はそんなにいないだろうし、共感する人はもっと少ないと思うけれど、まずはプロフィール代わりに転載。

原発エレジー 都市民に敵視される福島被災民

 スリーマイル島原発事故から数年後のことだ。テレビ番組か映画を録画したビデオを見る機会があった。その一場面で、原発や核燃サイクル基地を下北半島などの〝僻地〟につくることをどう思うかと街頭インタビューで問われた東京のサラリーマンが「五〇人死ぬより、一人死ぬほうがいい」と答えた。この受け答えを見て涙がとまらなくなった。原発地帯・原発予定地に暮らす者は、都市生活者に、死んでもかまわない存在として扱われていたのか、と。私の実家は東京電力福島第一原発から一〇キロちょっとのところにあり、また、実家の畑は、東北電力の浪江・小高原発の予定地になっていた。
 昨年(二〇一一年)三月の大震災では、その実家は津波に流され、今年(二〇一二年)の四月まで警戒区域となって、立ち入りを制限されていた。原発事故の放射線による直接の死者はいまのところ確認されていない【*】し、たぶん今後もそれほど放射線被害が拡大することはないと思われるものの、この地で暮らせるかといえば、遠い将来になるだろうことは覚悟せざるを得ない。子ども時分から、原発に何かあれば、ここには住めなくなるかもしれないと思っていたことが現実となってしまった。
 今回の事態に直面して、三〇年ほど前に見たビデオの記憶がよみがえり、その後、ひょんなことから、何の映像だったのかがわかった。広瀬隆さんの『東京に原発を』の文庫版に私が見た場面が記されていた。
 それは、一九八一年一〇月二五日に放映された日本テレビのドキュメント81「東京に原発がやってくる」という番組だった。ところが、広瀬さんの本では、サラリーマンは「五〇人殺すより、一人殺したほうがいいではないか」とコメントしたと記されていた。私が思い出した「死ぬほうがいい」ではなく、もっと露骨な「殺したほうがいい」というのが正確な発言だった……。
 心臓が締め付けられる思いがした。原発地帯で暮らしている(いた)者は、都市民から見たら「死んでもいい」のではなく、「殺されてもいい」存在だったのである。

 原発事故直後、高円寺や新宿、明治公園などで開かれた反/脱原発集会・デモに積極的に参加した。だが、徐々に違和感を覚えるようになり、足が遠のいてしまった。とりわけ官邸前行動を筆頭にした、一部の反/脱原発デモ・行動には、不快感さえ抱くようになっていた。なぜそう思うようになったのか。
 沖縄のオスプレイ配備反対を典型にする反基地運動と現下の反/脱原発運動を比較して気がついたことがある。沖縄の行動は、沖縄を蔑ろにする政府・米軍という権力と対峙した取り組みである。私は、基地に反対する沖縄民衆を無条件かつ全面的に支持する立場である。
 一方、反/脱原発運動の〝敵〟は、国、電力会社、原子力産業、あるいは〝御用学者〟といった〝権力〟側だけではなかった。
 3・11以前と以後の反原発運動は、大きく様変わりした部分がある。かつての運動は(少数の参加でしかなかったものの)、都市(電力消費地)と農村(原発地帯)が連帯し、ともに政府や原子力産業を追及していた。だが、いまや主流となった反/脱原発デモ・行動には、都市と農村を分断し、地方を攻撃し、対立を煽る方向の言説が流通するようになっていた。

 全原発が停止した(二〇一二年)五月、代々木公園での出来事だ。ランキンタクシーというラッパーが〈甘い言葉に踊らされ/大事なふるさとサヨウナラ/いくら泣いてもいくら泣いても後の祭り〉〈札束の山に目がくらみ/豊かな暮らしと勘違い/差し出しちゃった/差し出しちゃった/子どもの笑顔〉などと歌い、福島県民、とりわけ第一原発の立地町である大熊、双葉の住民に悪罵を投げつけ、矛先を向けてきた。集会では、参加者がランキンタクシーとともに歓声を挙げていた。その様子はすべてYouTubeで確認することができる。
 沖縄が対権力の闘いだとすれば、反/脱原発デモ・行動の一部は、ランキンタクシーの歌詞のごとく被災地たる福島の住民(なかでも彼らと一緒に行動しない住民)らを敵とする運動を組織していたのだ。対権力(だけ)ではなく、対福島、あるいは対住民との係争と化しているのである。かつての無関心層とともに、容認派や、東京には原発をつくるな、地方の原発地帯の人間は殺してもいいと考えていた者らが、(自らの問題となったと見るや自分かわいさに、かつての持論を投げ捨て)内省なしに、反/脱原発に転じたからだろう。

 あるいは、震災瓦礫問題。宮城や岩手の震災瓦礫を放射能瓦礫だと見なして搬入を阻止しようとしている「拡散反対派」は、国や行政を批判しつつ、拡散反対に懐疑的な岩手や宮城の住民、ときに震災瓦礫の広域処理とはかかわりのない福島の住民にまで悪態をつく。彼らは、汚染を拡散するな、汚染された瓦礫は福島に集めろと訴え、これに反対する者は、まるで「非国民」かのようにレツテル貼りするのが常だ(私は「非国民上等」ではあるが)。彼/彼女ら都市生活者にとって、平穏な暮らしを破壊した原因をつくった原発立地地帯の人間は、憎しみの対象なのであろう。
 だが、福島にも子どもはたくさん暮らしている。その福島を瓦礫の集積場(最終処分場)にしろという者どもの「子どもを守れ」の声がむなしく響く。

 原発事故後、新たに反/脱原発運動に参加した都市生活者の多くが沖縄問題に取り組まないのは、ある意味、当然である。彼らの主張のベースは、東京(都市)を汚染地帯にするな、ゴミは原発地帯に捨て置けと主張し、「いままでの生活を守れ(もとの生活に戻せ)」と訴えるものだ。誰かのための運動ではなく、自分とその身の回り(だけ)のための運動という側面が強い。いわば生活「保守」運動である。自らに累が及ばなければ、興味も関心もないのは、すでに事故前の原発に対する態度で実証済みだ。従って、もとより沖縄など眼中にない。
 原発地帯は、実は昔も今も都市の捨て石でしかなかった。そのうえ、いまや(反/脱原発運動に加わる一部の)都市住民は、原発地帯の住人を敵とまで見なす。原発反対の声が大きく広がったとて、都市のつけを地方に回すというやり口は、原発事故前も事故後もまったく変わっていなかった。むしろより剥き出しになっている。
 だが、都市と農村の相克は温存されるものの、反/脱原発が〝過激派〟による運動だとレッテル貼りされ、圧殺された過去を思えば、皮肉といえば皮肉なのだけれど、かつて原発反対の声を敵視・無視する側にいた人々が新たに反/脱原発運動の戦列に加わり、そのうえ、反/脱原発運動の大勢が原発を地方に押しつけたことに痛痒を感じない、事故前とまったく変わらない論理のもと、身の回り(だけ)の安心・安全を求める多数派に依拠した「保守」運動に転じたことによって、原発そのものがなくなる日が近づいてきたのは確かだろう。

【*】放射線の直接の被害者ではないが、津波に流されたのに、原発事故によって捜索できないまま放置され亡くなった多くの人々がいる。原発事故による強制避難によって体調を崩して亡くなった震災関連死も多数にのぼる。あるいは、私の友人に聞いた話では、事故後、警戒区域となった町に住んでいた高齢の親族が避難指示が出てからも津波に流された妻を捜すために町に残り、数週間後、捜索に入った警察が遺体を見つけたという。死亡診断書には「餓死」と記されたそうだ。この人も原発事故がなければ亡くならずにすんだはずだ。放射線被曝以外でも原発は人を殺す。

(二〇一二年一一月一六日/二〇一三年三月一三日改稿/二〇一五年一一月一四日微修正)

付記
ランキンタクシーの歌は〈騙したやつが悪いのか/騙されたほうが馬鹿なのか/子どもにしてみりゃ同じこと/こんな大人に/こんな大人に/なるんじゃないよ〉と続く。(たとえそのときは原発に賛成だったとしても)原発計画に影響を与えることのできなかった子ども時代、あるいは生まれる前に原発ができ、いま大人になっている者に対しても「こんな大人になるな」と悪態をつく心性には、不快さしか覚えない。

ただ、生活「保守」運動によって、いまある原発は徐々になくなり、新設もされないだろうから、いずれ原発は全廃されるだろうと、この原稿を書いたときには思ったものの、関心が薄れるに従い、既存の原発は耐用年数を延長するか、その後、建て替えて温存されるのではないかという悲観的な感情もふつふつと湧いてくる。放射性物質の移動に反対する都市住民の生活「保守」感情を刺激して、中間貯蔵施設も最終処分場にされてしまうかもしれない。結局、原発立地地域は、事故以前も事故後も同じようにババを引かされ続ける。

一時の感情で動いた人たちは、忘れるのもはやい。生活「保守」運動とはそういうものだった。(以上、2015年11月14日にフェイスブックに投稿した文章をさらに加工してnoteに転載 )

もっと詳しいプロフィールは下記に

https://twpf.jp/dokuritukisya (自著のタイトル、メールアドレス、携帯番号なども記載)



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