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出稼ぎと原発 山谷の支援者と話をしていて気がついたこと

 東京の寄せ場、山谷で野宿者支援などに取り組む知人と雑談をしていたとき、山谷暮らしの人の出身地はどこかという話になった。彼は「東北出身の人がたくさんいる。福島は、浜通りの人もいるけど、会津はもっと多い」と言った。
 ハタと気がついた。同じ福島県出身者でも、会津には大きな産業がなかったので東京に残り、浜通りには原発ができたので田舎に帰ることができた。中通りは働き口が比較的多く、もともと山谷にたどり着く人が少なかった。多分そういうことだったのだろう、と。
 1964年の東京オリンピックを前にした建設ラッシュで、東京では大量の労働力が必要になり、オイルショックの前年、72年には出稼ぎ労働者の数がピークに達した。労働省職業安定局の統計では55万人に上ったという。しかも東北だけで過半数を占め、道府県別でも東北6県すべてが10位以内に入っていた。
 亡父も若いときから出稼ぎに行っていた。稲の籾すりを終えたころに東京に向かい、正月の短い帰省を挟んで、田植え前に戻ってくるというのが常だった。
 その父がストレスからか出稼ぎ先で吐血し、東京・板橋の病院に入院した。72年か73年、私が小学4年のころだ。病室の記憶はおぼろげだけど、日が傾きかけたころ病院の屋上に上り、物干し竿にかかった洗濯物を潜り抜けて西の山並みを眺めると、ぽっかり富士山が見えたことだけは、なぜかはっきりと覚えている。
 父が退院後、出稼ぎをやめて最初に働いたのは、原発と東京を結ぶ、川内村やいわき市川前の送電線の建設現場であった。「ものすごい山ん中でイノシシが出で来たど」と父は語っていたものだ。その後、原発作業員を経て建設会社を興し、下請けとして原発の定期検査やランドリー業務などに携わるようになる。
 第1原発の1号機が営業運転を開始したのは71年、2号機が74年だ。期せずして父は、出稼ぎがもっとも多かったころに病に倒れ、快復後、稼働間もない原発に職を得た。相双(相馬と双葉の総称)の留守家庭の多くでも、原発の“お陰”で父親らが地元に帰り、毎日一緒に過せるようになったに違いない。
 出稼ぎのピークから40年近く経った、震災の年を含む10年度には、厚労省の確認した出稼ぎ労働者は全国で1万5000人にとどまり、福島はゼロになっていた。
(福島民友「みんゆう随想」第3回「出稼ぎと原発」2019年7月13日付を一部改稿。写真は2018年、浪江町棚塩にあった東北電力浪江・小高原発準備本部の建物の解体風景を撮影したもの)

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