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ある「発掘」調査 福島県浪江町に残る南朝伝説

 40年以上前、私が小学生か中学生だったころ、伯母が「浪江の大堀には昔、南朝方の天皇が落ち延びてきて、御所が置かれていた。御所の発掘が行われたこともある」と話してくれたことがある。当時、伯母の家は私の実家があった旧小高町の隣、浪江町の小野田という部落にあった。小野田の西隣が旧大堀村の中心、大堀部落だ。大堀焼(大堀相馬焼)の里といえばわかりやすいかもしれない。
 郷土の伝承に惹かれ、少しばかりそんな本をかじってみると、南朝の政権を樹立した後醍醐天皇の末裔とされる信雅王なる人物が、応仁の乱で西軍の大将だった山名宗全によって後南朝の天皇「西陣南帝」に擬されるも、戦乱のなか後ろ盾を失って身が危うくなったことから京都を脱出し、現在の双葉郡北部を支配していた南朝方の標葉氏を頼って浪江にやってきた、という昔話にたどり着いた。信雅王は、請戸浜を上陸し、小野田に停留しつつ、大堀に御所を建てたというのだ。
 だが、北朝に与する相馬氏(中村相馬氏)が標葉氏を攻め滅ぼしたため、信雅王はいったん葛尾の山中に逃げのび、再び流浪の旅に出て、最後は尾張一宮に土着したとされている。
 伯母が言っていた「発掘」調査というのは、信雅王の後裔を名乗る自称熊沢天皇と、やはり南朝方の末裔だと称する葛尾村在住の葛尾天皇の二人が戦前、信雅王が住んでいたあたりで埋蔵品探しをしたという逸話のことだった。
 半ば荒唐無稽な物語を知り、子ども心に歴史のロマンを覚えたものだ。いまや浪江町の公式サイト(「中世から近世」の項)でも、〈当地には、応仁の乱の西軍(山名宗全派)に擁せられた南朝の帝の末裔・信雅王の鎮座伝説など、南朝にまつわる伝説が数多く残されています。〉と信雅王伝説を紹介しているのだから面白い。
 そもそも信雅王が実在の人物であるのか、あるいは西陣南帝に擁立されたその人なのかは、何の確証もないようだ。もしかしたら、戦後、「我こそは南朝の後裔である正統な天皇なり」と主張して颯爽とマスコミに登場した熊沢天皇こと熊沢寛道氏が、浪江の伝承を利用して一部創作した話だったのかもしれない。
 原発事故で帰還困難区域になった大堀あたりを昨年めぐった。信雅王伝説をふと思い出し、遺構でもあれば見てみたいと思ったものの、下調べもしていないのだから、易々と行き当たるわけがなかった。伯母にあらためて場所を聞こうにも、震災後、避難先で亡くなり、それも叶わないことになってしまった。
(福島民友「みんゆう随想」第1回「『発掘』調査」2019年4月27日付を改稿。写真は2018年、浪江町大堀で撮影)

付記

 福島民友新聞に「みんゆう随想」という欄があり、身辺雑記を載せています。いま現在、東京に暮らす私が福島県内の読者向けにコラムを書くのならば、地元にかかわる話を必ず入れようと考えました。その結果、書きやすい自分の子ども時代の出来事や体験を枕にするという、ワンパターンの流れになってしまうきらいもあるのですが……。そのあたり斟酌して読んでもらえればと思います。以後、随時転載します。(東日本大震災から9年1カ月の月命日に)

追加の付記
 福島民友の連載は、2022年に終わりました。

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