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オタクコンテンツにエシカル消費はいらない ~青識亜論のネチネチnote~

 こんにちは!

 批判の粘着性に定評のあるネット論客の青識亜論です(さわやか)

 さて。

 米国の銅像破壊ムーブメントを論じる記事を書いていたのだが、現代ビジネス上に興味深い記事が投稿されたので、急遽中断し、今日はそちらについて論じることとしたい。

 筆者は慶応大学大学院の博士課程で社会学を専攻されている中村香住氏だ。

 中村氏は「女性アイドル、メイドカフェ、女性声優や女性2次元アイドルコンテンツのオタク」であり、かつ大学院でジェンダー研究を行っているいわゆる「フェミニスト」である。

 昨今、インターネット上では、女性のアクターやキャラクターが登場する「オタク向け」作品と、いわゆる「フェミニズム」が自明的に対立するものとして扱われがちであり、中村氏自身も「葛藤」に苦しんでいるのだという。

 中村氏が当該記事で定義する「オタク」とは次のようなものだ。

今回のツイートで私が用いた「オタク」の中身は、実際には「女性演者や女性キャラクターがメインとして登場するコンテンツを一般の人よりも高い熱量をもって愛好し、追いかけている人」ということになる。

 これに対して、「フェミニスト」の定義とは何かというと、

私が前述のツイートで自分を指すために用いた「フェミニスト」は、端的に言えば、ジェンダー平等の実現を求めることに賛同しているすべての人である。もう少し踏み込んで言えば、性別に起因する格差や、性別によって社会から規範的に割り当てられる役割の違いに基づく生きづらさを問題だと感じ、是正を求める人のことである。

 ということらしい。

 結論から言うと、私はこの意味でのオタクとフェミニストは両立しうるのだという中村氏の主張にはまったく賛成である。

 なんなら私も中村氏の言う意味でのフェミニストではあるし(もちろん事象によって賛否は分かれるだろうけども)、オタクでもある。

 にもかかわらず、私が当該記事を問題視しているのは、一部フェミニストによる「性的『消費』批判」を無批判に採用している点にある。

 以下、ネチネチと見ていこう。


オタク的コンテンツは「性差別」なのか?


 中村氏の論理をごく簡単にまとめると、次のようになると思う。

① フェミニストは表現規制を要求しているのではなく、オタク表現が「性的客体化」によって女性差別に加担することを批判している。

② オタクコンテンツは女性演者または女性キャラクターを「まなざす」ものである以上、「客体化」という批判は免れがたい。

③ 消費されるために作られたものとはいえ、女性が主体的に活躍する作品は、女性の自立や連帯をエンパワメントするものともなりうる。

④ オタクコンテンツの消費に内在しうる暴力性を自戒しつつ、より「まし」な消費の仕方を考えられないだろうか。

 この中村氏の記事は、様々な立場に配慮しつつ書かれた、誠に丁寧なものであると私は思う。②でフェミニストの批判にも一定の妥当性があるとして引き受けつつ、③ではオタクコンテンツが女性をエンパワメントする可能性にも論及している。

 ③については私も賛成するし、フェミニストの立場からそのような発話をする人がもっと増えてほしいとも思う。しかし、一方で、フェミニストの批判を受容するために、いくらか論理に飛躍が見られる。

 その点をネッチリ見ていこう。

 まず第一に「性的客体化」についてだ。筆者は「オタク文化自体に「性的客体化」などの形で顕現する女性差別的な目線が根源的に横たわっているのではないかという危惧」について一定の肯認を与えながら、次のように述べる。

コンテンツを享受する消費者は「まなざす側」であり、コンテンツを提供する女性演者や女性キャラクターは「まなざされる側」、つまり「客体」であるという非対称性が生まれる。この時点で、女性のある種の「客体化」であるという批判は免れない。

 そして、ただ単に女性を客体として扱うだけではなく、少なからず女性性の魅力にフォーカスしていることを指摘しつつ、次のように述べる。

そして、こうしたコンテンツの作り手側もまた、コンテンツを愛好している消費者が女性性に強く惹かれていることを知っているであろうし、そうであればこそ、消費者が女性性を消費しやすいように「性的客体化」とみなされるような表現を提供することもある。

 オタクコンテンツが「性的客体化とみなされるような表現を提供することもある」という言明自体は「真」である。単なる可能性にすぎないからだ。しかし、それは「女性が客体(まなざされる側)になっていること」や「女性性の消費」とは全く無関係の事象である。

 「女性性を消費すること(性的であること)」と、「女性を客体として扱っていること」から、あたかもオタクコンテンツが「性的客体化を行いがちな傾向性を有する」かのように述べ、フェミニストの「危惧」に一定の妥当性を見ようとしているが、「性的+客体化=性的客体化」というわけではない。

 「性的客体化(性的モノ化)」については、江口聡氏が同じく現代ビジネス上で投稿されている記事に詳しく言及があるので、引用したい。

彼女(ヌスバウム)によれば、「性的モノ化」という概念は、実は複数の要素を複合したものだ。「モノ化」一般、すなわち「人をモノとして扱う」という表現で意味されている主要なものの一つは、(1) 他人を道具・手段として使用するということだ。(中略)当人が給料や待遇や人間関係などの点で納得して、自発的に使用されるのならば問題がない。不正なのは、他人を「単なる」手段として使うこと、つまり当人の意思を無視して、手段として使うことだ。

 どういうことか。

 例えば、グラビアアイドルは自らの肢体をセクシーに見せる職業であるし、読者に「見られる客体」になることが当然に予定されているのだが、だからといってその自己表現が直ちに性的客体化に当たるとは言えない。

 そのような「性的な客体」として振る舞うことが自発的意志に基づき、意志ある主体として(つまりモノではなくて人間として)そのような表現に従事していることが(通常は)明らかだからだ。

 オタク向けコンテンツであってもそれは変わらない。

 この「単なる手段として扱う」というヌスバウムの性的客体化に関する重要な要件への検討を飛ばして、フェミニストの「危惧」を是認してみせることは、宇崎ちゃんやキズナアイといった何ら差別的でないコンテンツに性差別のレッテルを貼られてきた(そして幾度となく反論の声を挙げてきた)オタクの側に対してフェアな態度であるとは言えないだろう。

 加えて問題なのが、第二の点、「消費」に対する態度である。中村氏はオタクコンテンツから受ける幸福を謙抑的に称揚しながら、唐突に次のように結んでいる。

もちろん、それでもオタクである私たちは、結局のところ「消費」をしている。私の場合、女性性の消費、パーソナリティの消費、女性同士の関係性の消費など。変な話、「消費」しかできないという諦念もある。そのことに罪悪感を抱くことも正直ある。その「消費」に内在しかねない暴力性については、つねに考えていなければならないとも自戒する。しかし、「消費」自体をやめることはできないとしても、少しでも「まし」な消費の仕方を考えられないだろうか。

 性的客体化の話をしていたと思ったら、急に「暴力性」の話が出てくるのである。

 これには多くの人が首をかしげたのではないだろうか。

 ここでも「しかねない」という可能性への言及にとどまっているのがポイントで、確かに可能性だけであれば「真」としか言いようがない。

 オタクがコンテンツを消費するにあたって、わざわざ嫌がる女性に見せつけたりする場合があるとすれば暴力的だ。可能性だけで言えば存在する。しかしそんなものはなんだって同じであろう。オタクコンテンツの消費について特筆して述べる必要があるものであるとは思われない。

 分厚いフェミニズムの専門書のカドで男の頭を殴れば暴力だ。だから「フェミニズムには暴力性が内在しうる」などという言明に意味などない。

 どんな内容であったとしても、消費することそれ自体が「暴力性」を有するなどということはありえない(上に書いたように、他者にそれを強要でもしない限り)。

 「消費自体をやめることができないとしても」「ましな消費の仕方を」と検討すること自体が、まったくナンセンスなのである。


オタクコンテンツの消費に罪悪感を持つ必要はない


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 中村氏はフェミニストを「ジェンダー平等」を希求する者として定義しているが、オタクコンテンツの愛好者が「ましな消費」を心掛けたとしても、ジェンダー平等には微塵も寄与しない。

 オタクコンテンツをエシカル(倫理的)に消費したとしても、(自己満足を覚える当人を除いては)誰一人として幸福にしないことは明らかだ。

 したがって、葛藤を感じる必要などまったくない

 そのような葛藤を私たちに植え付けてきたのは、何の根拠も脈絡もない「差別」や「性搾取」や「暴力性」をオタクコンテンツに見出してきた似非フェミニズム的言説にほかならない。

 そしてまた、他者の愛好するものにそのようなレッテルを貼られれば、怒りを感じるのは当然であろう。

 これは何も感情的な問題ばかりではない。

 中村氏個人の信仰として無根拠な原罪意識を持つのは信教の自由であり、尊重もしよう。食肉の消費に倫理的な罪悪感を覚える人も世の中にはいる。ヴィーガニズムよりもはるかに根拠は薄弱だが、オタクコンテンツ消費に内心で罪悪感を抱く人がいてもいいだろう。多様性だ。

 だが、「差別」とか「暴力」という言葉は重い。

 それは社会的に普遍性を持った不正義であり、加害であり、無くすべきものだからだ。中村氏は、「表現規制は求めていない」と言うが、ただの批判だからといって看過すべきものではない。

 実際、キズナアイや宇崎ちゃんといったオタク表現に差別のレッテルが張られ、少なからぬ圧力を受けてきた。コンテンツによっては撤去されたものもある。

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(※すもも氏によるフェミニスト炎上の一覧まとめ)

 現実に、太平洋を挟んだ向こう側のアメリカでは、奴隷解放の立役者であるリンカーンや、建国の父であるジェファーソンといった偉人たちの銅像が、「差別」のレッテルを貼られ、著しくは破壊されつつあるのだ。

 女性差別にせよ黒人差別にせよ、不当な差別はなくすべきだ。

 だが、その問題意識が高まるあまり、無関係な表現物に差別のレッテルを貼り、あたかも倫理的に何か罪責を感じなければならないかのように言うことは、それ自体が「暴力」ではないだろうか。

 中村氏は、「オタクVSフェミニスト」という構図の解消を誠実に願い、当該記事を書かれたのだと思う。そのことは文の端々から伝わってきた。

 しかし、本当にフェアに対立構造の解消を願うならば、フェミニストが繰り返してきた「告発」の持つ暴力性にこそ光を照射するべきでなかっただろうか。

 中村氏のところには、今、多くの批判が集まっているようであるから、直ちに返答を求めようとは思わない。

 しかし、いずれ、オタクとフェミニストとの対立構造を解消する方法について、正面から議論を交わしてみたいと私は思う。私もまた、この対立は超克可能なものだと信じるがゆえである。


以上


青識亜論