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論点整理:少女型ラブドール規制論

 十年越しに亡霊がよみがえろうとしている。

 「児童ポルノ規制法改正案」の亡霊である。

 かつて、実在児童の写真やビデオばかりではなく、非実在青少年を描いた漫画やアニメを法規制しようとする動きがあったことを、読者のみなさんは御存知だろうか。

 森山元法相ら自民・公明両党の女性議員らを中心に、一時可決寸前まで進んだこの法案は、政権交代によってすんでのところで阻止された。

 いうまでもないことだが、非実在女性を描いた創作物は、誰の人権も侵害していない。多数者の感情的理由だけで表現の自由を制約する法を作ることは、許されない人権侵害であるし、憲法違反であると言える。

 当時の野党議員、さらに後には山田太郎議員や漫画家・赤松健氏らを中心とした反対活動の甲斐があり、児童ポルノ法改正による表現弾圧は阻止され、現状では復活の見込みはない。

 ところが、である。

 今また、一度は葬られた児童ポルノ法改正案の墓を暴き、新たなる規制を求める声が出始めているのである。「少女型ラブドール」の問題である。

 年端もいかない児童の姿態をきわめて精巧に模した「ラブドール」の存在は、確かに私たちにとって言い知れない生理的嫌悪を催す存在である。それが存在していることを想像するだけで、強い苦痛の感情を呼び起こす種類のものである。

 しかし一方で、少女型ラブドールが存在し、それを用いてどこかの誰かが自慰行為にふけることは、それ自体、誰の人権を侵害するものでもない。

 児童の性的身体の保護は、私たちの社会において、考えうる限りでもっとも重大で、かつ優先されるべきものであることは、論を待たない。児童に対する性的暴行は、徹底的に取り締まらねばならない。

 だが、少女型ラブドールの存在は、児童の人権や、子を持つ親の権利と、いったいいかなる関係があるのだろうか。

 この構造は、実は、かつて「児童ポルノ漫画」として指弾された少女を描いたエロ漫画と、全く同じものなのである。

 本稿は、「児童ポルノ法改正案」問題で規制反対派が行ってきた当時の理論武装を活用し、少女型ラブドール規制論に徹底反論するものである。当時の議論を熱心に追っていた人々にとってはいかにも既視感のある内容かもしれない。しかし、私たちは何度でも何度でも、規制論が墓から這い上がってくる限り、同じことを繰り返し述べ続ける必要があるのだ。

 これは、死せる規制論を再び黄泉へと送り返す鎮魂の文書である。


規制論① 少女型ラブドールは性犯罪を誘発する
 →反論 性犯罪を誘発する証拠はどこにもない

 犯罪誘発論は、もっともポピュラーな規制派の論理である。

 少女型ラブドールを愛好する人々がそれに刺激されて、実在の児童に手を出すかもしれない、だから規制しなければならない、という主張は、世間一般の人々にとって一見説得的なものだ。

 だが、これは誤りである。

 「犯罪を模した表現物に接した人は、その犯罪を起こしやすくなる」という考え方は、「強力効果論」と呼ばれる単純なモデルで、現在では学術的に否定される傾向にある。

 そう言うと、規制派は次のように述べるかもしれない。

しかし、この原因-結果関係論はあまりにも厳密すぎる。上記のような因果関係が立証されれば、そのような商品・製造物を社会に流通させることは危険すぎるため直ちに禁止されるであろうが、現在の公害責任や製造物責任はそのように厳密な原因と結果(損害)の関係性の立証を要求してない。ポルノグラフィという「製品」は「表現」にかかわることだからという一点だけでは、そのような厳格な因果関係の要求を正当化できないであろう。 
(中里見博『ポルノグラフィと性暴力』p. 78)

 例えば、拳銃や麻薬が、犯罪率を上昇させるかどうかというのは、必ずしも厳格に立証されているわけではない。だが、現実にはそれらは危険であることを理由として規制されている。社会が安全性を強く要求する分野においては、危険を誘発する恐れが一定程度「確からしい」ことをもって規制することは是認されるのだ。

 では、ラブドールやポルノグラフィについてはどうだろうか。

 まず第一に、拳銃は物理的に銃弾に当たれば人は肉体的に傷つくのであり、麻薬や化学物質は薬理作用から一定程度リスクを推認することができる。一方、ラブドールの存在がどのような機序で犯罪を引き起こすのかは全く想像の世界でしかない。

 第二に、児童性犯罪者が「ポルノやラブドールから刺激を受けて性犯罪に走った」と証言したとしても、それは単に性犯罪を犯す動機や環境要因がある人が、たまたま最後のきっかけになっただけなのであって、ポルノやラブドールがまったく無から犯罪を生み出したわけではない、ということである。

 これは、現在、「限定効果論」と呼ばれるもので、メディア影響論の中で一般に主流的な見解となっている。

 例えば、規制派が最近好んで引用するこの記事である。

 「性犯罪者の九割がポルノグラフィを読んでいた」は、「九割がパンを食べていた」と同じぐらい何の意味もない数字だ(今どきは大概の人間がポルノぐらい見たり読んだりするだろう)。

 性犯罪の「引き金を引いた」というのも、大仰に書いてあるが、逆に言えば単に引き金となっただけであり、ポルノが無ければ別のものが引き金を引いた可能性もあるし、マクロでポルノが性犯罪を増やしているかどうかについては何の論証にもなっていないのである。

 いずれにしても、性犯罪誘発論(強力効果論)を裏付ける研究は今のところ存在せず、犯罪抑止のために規制せよという論理は、現段階では非論理的な主張であると言わざるを得ない。


規制論② 犯罪の原因にならないという証拠はない
 →反論 証拠がないことは規制理由にはならない

 確かに、実在児童への性被害増加は重大な社会問題であり、その解決のためであれば、あらゆる手を尽くしたいと考えるのはわかる。少女型ラブドールのように、関連しそうなものを積極的に規制しようというのも、児童の性的身体を何とか守りたいという考えから生じたものだろう。

 だが、これは容易に魔女裁判に至りうる危険な考えである。

 もしも、犯罪を防ぐために関連しそうなあらゆるものを規制しても良いというのであれば、テロを防ぐためにある種の宗教や思想を規制したり、安全保障のために特定人種を閉じ込めてしまえという発想を容易に合理化する。

「あなたはなんだか危険そうなので人権を制限します。嫌なら危険でないことを論証してください」

 これが魔女裁判でなくてなんなのだろうか。そのような理屈がまかり通る社会になれば、憲法の人権保障は画餅と帰すだろう。

 「危険性を疑われた方が挙証せよ」というのは、「悪魔の証明」とも似た典型的な詭弁である。

 危険があるというのであれば、まずもって危険性を主張する側が十全に挙証責任を果たす必要がある。


規制論③ 少女型ラブドールはヘイトスピーチである
 →反論 ラブドールは「憎悪扇動」ではない


 ラブドールに限らず、ポルノグラフィ=「女性へのヘイトスピーチ」という主張は、ラディカルフェミニストのポルノ規制論では定番のレトリックだ。

 黒人は暴力を欲しかつ楽しむといった神話を振りまき、黒人に対する攻撃や暴力を先導し、黒人の虐待や支配をあたかも楽しいことであるかのように描くメディアがあるとしたら、その描写はたしかに言論であっても保護されるべき言論ではない。
 実際、毎年何千、何万という黒人がそこに描かれたような仕方で殴られ、蹴られ、あるいは殺されるという現実があるのに、もしそうした内容の読み物や写真が満載された雑誌が町中のコンビニで売られ、そうした内容の映像が町中のビデオショップで貸し出され、それらが家庭や職場で楽しまれているとしたら、それはきわめて異常なことである。雑誌やビデオの中身が言論であったとしても、それは憲法が保護する言論ではないのである。
 黒人を殺すことを扇動する言論や表現と同様に、女性を強姦し支配することを扇動する言論や表現もまた、保護を受ける資格はないと言うべきである。
(杉田聡『男権主義的セクシュアリティ』p.122-123)

 黒人の人形を殴って辱しめるデモンストレーションがあったとすれば、それがヘイトスピーチであることは論を待たないだろう。であるならば、少女を模した人形に疑似性交機能を持たせることは、児童性犯罪を扇動しているヘイトスピーチに当たるのではないか? 違いはなんなのか?

 一見すれば論理的で正当な主張をしているように見える。だが、この主張は、なにがヘイトスピーチに当たるのかを決めるのは、外形ではなく文脈である、ということが忘れ去られている。

 例えば、黒人に対して過去に振るわれた暴力や酷い境遇を描いた文学は(例えば『アンクル・トムの部屋』のような)、そこに文学的楽しみを見出すとしても、黒人への暴力を肯定しているなどとは言えない。むしろ逆に、そのような暴力の不道徳性や差別を暴く場合さえある。

 一方、黒人の人形を白人高校生が殴るデモンストレーションは、明らかにその人形に対して憎悪や嘲笑をぶつけ、聴衆に差別的メッセージを与えることが企図されている。

 文脈をそぎ落とし、単に「暴力を表現している」というだけでは、この差異は見落とされてしまうのである。

 では、ラブドールの場合はどうか。

 法務省の「ヘイトスピーチ」の定義を見てみよう。

特定の国の出身者であること又はその子孫であることのみを理由に, 日本社会から追い出そうとしたり危害を加えようとしたりするなどの 一方的な内容の言動が,一般に「ヘイトスピーチ」と呼ばれています (前述「人権擁護に関する世論調査」より)。
法務省ホームページ

 いうまでもなく、ラブドールそのものは、女性や児童に危害を加えるよう扇動しているわけではない。それは利用者の性欲を解消するために最も合理的で美学的なデザインがされているだけであって、特別な政治的メッセージが込められているわけではない。

 もちろん、公衆の面前で少女型のラブドールを使い、「児童をレイプしろ」と叫んだならば、黒人人形の例と同じように、ヘイトスピーチとしての性質を有するかもしれない。

 しかし、自らの性欲を解消するために、自室でラブドールを使うことが、いったいいかなる排除的・憎悪扇動的メッセージにつながるのだろうか。

 また、「合法レイプ実現」「あなたの夢を実現」というメッセージを問題視するとしても、このメッセージから読解できるのは、生身の児童をレイプすることは「合法ではない=犯罪」であり、「生身の児童と性行為することは決して許されない(=夢)だから、人形で実現しよう」ということでしかない。

 これは、「犯罪をしてはいけない」という強い規範の裏返しなのであって、本物の少女をレイプせよと勧めるようなメッセージ性は全く込められていない。

 ヘイトスピーチの本来の意味を没却した、外形的なイメージだけで同一視することは、ラブドール産業に関わる従業員や消費者への不当なレッテル張りであるばかりでなく、本当にヘイトスピーチをぶつけられ、切実な苦痛と危害を受けている人々の問題を軽んじることにもつながる。

 力の弱いマイノリティが、集団で押しかけられて「出ていけ」と罵倒を浴びせかけられる恐怖と苦しみは、どこかの誰かが自室で密やかに人形を抱いて自慰にふけっていることとは比すべくもない。

 言葉遊び的なレトリックは、現実のヘイトスピーチ解決のための試みにも後ろ足で砂をかけるものであり、不当かつ悪質である。


規制論④ 黒人を殴って楽しむ人形ならアウトのはず
 →反論 現実に販売されているし、何の問題もない


 「規制論③ヘイトスピーチ」と関係する論点として、殴って楽しむことが目的の黒人人形が売られていれば問題ではないか、という主張がある。一種の反転可能性テストであるが、現実には、黒人のイメージ写真を商品画像に付したパンチングダミー人形は販売されているし、特に倫理的な問題が存在するとも思えない。

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規制論⑤ 子どもが見たらトラウマになる
 →反論 アダルトショップで販売しているのだが……

 子どもが見ないようにゾーニングをし、アダルトショップ等で販売しているのであり、通常、児童がアクセスすることはできない。すでに十分に抑制された状況の下で販売されているのであって、これも詭弁である。

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(※アダルトショップの一例。子どもが迷いこむような場所ではない)

 むしろ、わざわざ写真を撮影してTwitterで拡散している人々の行為の方が、児童が閲覧する可能性を生み出していると言えるだろう。


規制論⑥ ゾーニングが不十分である
 →反論 ゾーニングは「かくれんぼ」ではない


 ゾーニングというのは、ある表現物に対して、「欲しい人」と「見たくない人」を分けることで、見たくない人が不必要な不快感を受けたり、子どもがアクセスできないようにハードルを設ける施策だ。

 言うまでもなく、アダルトショップは18歳未満の侵入を禁止しているし、スーパーに大根を買いに来た主婦が間違って入ってしまうような場所でもない。

 そして、ゾーニングの重要なところは、単に見たくない人を守るだけではなく、欲しい人がちゃんとアクセスできるように経路が確保できている必要もある。

 欲しい人が「ラブドール」と検索したらちゃんと表示されるのはゾーニングのもう一つの側面なのであって、検索しても出ないようにせよというのは、もはやゾーニングではなく「排除」でしかない。


規制論⑦ 倫理や人道に反している
 →反論 自慰行為は非人道的行為ではない

 この種の「人道」「倫理」「人権感覚」というふわふわしたワードで規制を正当化しようとしたり、子を持つ保護者の「不安」などの感情を基に、少女型ラブドールの規制を正当化しようとする論調も見られた。

 子どもは社会にとって未来そのものとも言うべき大切な存在であり、また、身体や判断能力が未成熟な弱い存在である。社会的に格段の保護が与えられるべきであるし、子どもに対する加害は、対等な大人同士の場合よりも強く倫理的に批判を受けるべきだという主張は理解できる。

 この感覚は、非常に広く共有されているもので、容易に理解可能なものだ。

 しかしながら、忘れてはならないのは、倫理に反しているのはあくまで、児童の性的身体を侵害する「行為」だということだ。

 どこかの誰かが自室で自慰行為をすることは、何の倫理にも反していない。誰の人権も侵害しない。人道に反することでもない。

 自慰行為のオカズがキモチワルイというのは、感情としては理解できるが、それは倫理や人道といった普遍的な人倫の問題ではない。私たちの感情の問題に過ぎない。そして、個人のオカズというのは往々にして他者から見れば嫌悪感を催すものが含まれているものだ。

 わざわざ人のオカズを覗き込み、不快だ、非人道的だ、と騒ぎ立てるのは、そのこと自体がハラスメントなのではないだろうか。


規制論⑧ 人形を犯すものはいつか人をも犯す
 →反論 ハイネの警句の趣旨はその逆だ

 前提知識として、ハイネの警句を取り上げておこう。それはこういうものだ。

本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる
Dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man auch am Ende Menschen.

 19世紀を代表する詩人・ハイネは、熱心な社会活動家でもあり、作品の中には政治や社会に対する批評も数多く含まれている(あのカール・マルクスとも親交があった)。

 思想信条を攻撃し、抑圧する社会では、いずれその持ち主の権利を奪い、生命をも奪うようになる。ハイネは、当時政治動乱のさなかにあったドイツにおいて、上記のような言葉を遺したのである。

 皮肉にも、一世紀後、彼の著作は焚書の対象となった。ハイネがユダヤ人であったという理由で、ナチスの表現弾圧の対象となったのだ。そして、焚書をした人々は、今度はユダヤ人自身の生命を奪い始めた。ハイネの予言は現実のものとなったのだった。

 ハイネのこの言葉は、私たちにどのような教訓を与えるのだろうか。

 間違っても、「人形でオナニーをする人は、きっと誰かをレイプする」などというような主張ではない。

 むしろ、全く逆だ。

 誰かの信条、思想、欲望、様々な「想い」を形にした表現物を弾圧し、他者の内心を裁こうとする社会においては、その想いの持ち主が同じ人間であり、尊重と尊厳の対象となるということが容易に忘れ去られてしまう。

 そのような社会の行き着く先は魔女裁判と魔女狩りの世界だ。

 ラブドールであっても、同じことであろう。物質的にはただの特殊プラスチックの塊であっても、そこには作り手の思いが込められているのであり、そして、現実では果たされえない持ち主の欲望を受け止める器なのである。

 ラブドール規制を訴える人々は、気に入らない思想や信仰を火にかけた歴史と同じ過ちを犯していないか?

 ハイネの言葉は、今も私たちの社会にそう問いかけるのである。


規制論⑨ ラブドール利用者が犯罪しそうで怖い
 →反論 単なる恐怖感情は規制の理由にはならない

 猟奇殺人者などの経歴を見ると、確かに小動物の殺傷や、目下の人間への支配的な振る舞いが見られるケースも多い。同じようにラブドール使用者が「エスカレート」して、児童性犯罪者となるのではないか。この恐怖感情それ自体は理解できるものだ。

 もちろん、幼い子を持つ親などから見れば、それは切実な恐怖であり忌避感情なのであって、それへの配慮は一定必要であろう。小児型ラブドールを使用しているという事実を安直に言い立てるべきではないし、しっかりとゾーニングされる必要があるのは当然だ。

 しかし、一方で、小児性愛者の側の権利にも一定の配慮が必要である。

 もし恐怖感情だけである属性の人々を拘束したり、権利を制限できるとするならば、私たちの社会は予防拘禁の嵐が吹き荒れ、自由や人権は永遠に失われてしまうだろう。

 異質な他者への恐怖を受け入れることが、自由で多様な私たちの社会の前提条件だ。感情への配慮と、法的規制はしっかり区別されなければならない。


規制論⑩ 社会的に批判の対象となるべき
 →反論 性的嗜好を「原罪」として扱うな

 児童を性的被害から守るため、小児性愛に対しては社会的に「冷たい目」が向けられなければならない、だからラブドールのようなものは規制されるべきだ、という論調も多く見られた。

 犯罪抑止論については「論点①・②」ですでに述べたが、本項ではさらに積極的に、そもそも「小児性愛は社会的批判の対象であるべき」なのか、ということを問いたい。

 性的指向にせよ嗜好にせよ、私たちは先天的ないし後天的にその性愛のかたちは決まっていく。誰をどのように愛するのかということは、私たちのパーソナリティであり、アイデンティティと強く深く結びついているものだ。

「あなたの性的嗜好は罪深いものだ」

 と社会的に扱われることは、どれほどその当事者を傷つけるか、考えたことがあるだろうか。

 確かに、もし現実に児童に手を出せば、それは許しがたい犯罪である。けれども、ラブドールやポルノの空想の世界で充足することについては、誰も傷つけないし、なにも悪いことをしているわけではないのだ。

 嫌悪を受けることは仕方がないことだろう。恐怖の対象となることもやむをえないことかもしれない。

 しかし、それでもなお、小児性愛という嗜好を背負ってその人々は一生を生きていかなければならない。誰をも傷つけない範囲で自らの欲求を充足させようとしている人々から、ラブドールやポルノを取り上げ、お前たちは生まれながらの罪びとだと指弾し、社会的に差別しようと主張することのどこに妥当性があるのだろうか。

 それは正義感の発露かもしれないが、正義ではない。

 この論点については、同性愛者と小児性愛者の対比もよく論じられる。例えば、次のような意見だ。

 だが、同意を取りえないことは、ある性的嗜好=欲望の持ち主を差別して良いということにはならない。

 少し考えてみればいい。ある孤立した島があり、そこの住人はたった一人の同性愛者を除いて異性愛者であるとしよう。彼が死ぬまで合意の上でパートナーを獲得することはできない。彼は同性の島民と結ばれる様を空想して自ら慰めるしか欲望を解消することはできないのだ。そのような悲しい境遇にある人を、差別して良いとか、あるいは積極的に白眼視せよと訴える倫理的根拠があるだろうか。

 合意を形成する見込みがないということは、差別をしていいという理由にはならないのだ。


規制論⑪ 小児性愛は治療せよ
 →反論 欲望それ自体は「病気」ではない

 これは、今回の「少女型ラブドール規制論」の中で、かなり多くの規制派が言及していた論点だ。そして、きわめて重要な論点だと思うので、最後にしっかりと論じたい。

 少女型ラブドール規制派の人々の多くが、小児性愛それ自体が精神の病であり、治療や拘束が必要であるとの主張をしている。

 また、その主張を裏付けるように、この記事が論争の中で何度も参照されていたので、併せて紹介したい。

 なるほど、確かに、児童への性的欲求が抑えがたいほどに強く、今にも他者を危害しそうなほどなのであれば、それは病気というべきだ。しかし、それは欲望そのものが悪いのではなく、衝動が抑えがたいほど大きく、自分でも行動を抑制できない状態が「病症」であり、治療の対象となっているのである。

 決して、小児性愛「そのもの」が治療の対象であるというわけではない。

 実際、記事でも紹介されているように、治療は「認知行動療法」であり、「欲望が抑えられない」「行動に移してしまう」ことをターゲットとしている。そしてそれは、なにも小児性愛に限ったことではない。

 例えば、他人の持ち物を見て、羨ましいとか、欲しいと思うことは誰しもあることだろう。しかし、それを窃取する衝動が抑えきれないならば、それは病症であるし、治療の必要がある。その違いはきわめて大きい。

 加害欲求を抑えられないほど大きな欲望であったり、欲望を抑えることができないような精神状態は、小児性愛でなくとも異常であると言える。大人の異性に欲望を感じる「普通」の嗜好の人であったとしても、欲望がまったく抑えられない人がいたとすれば、犯罪を犯してしまうし、治療が必要な場合もあるだろう。

 にもかかわらず、小児性愛者だけが欲望を自律できず、犯罪に走ってしまうような「治療」が必要な人々だという認識は、それこそが、いわゆる「差別」なのではないだろうか。

 ここでもやはり、歴史を顧みる必要がある。

 かつて、同性愛もそのような「治療」の対象となっていたことがあった。

 異性のポルノ画像を見せながら、脳の快楽中枢に直接電流を流し、強制的に異性愛を植え付けるというような非人道的なことが医療の名の下に行われたこともあった。

 人工知能の父とも言われる天才数学者アラン・チューリングも、同性愛者として逮捕され、強制的な薬物療法を受けさせられたあげく、最後は自殺することとなった。

 性愛そのものを治療するという発想が非人道的であるのは、私たちのパーソナリティに性愛はきわめて根深く癒着しているからだ。私たちのセクシュアリティとは、私たち自身でもあるのだ。

 そしてそのことは、小児性愛者であってもおなじことのはずだ。

 私たちは安易に他者の欲望を「治療」せよなどと口にするべきではないし、ましてや、小児型ラブドールの利用者全体に治療が必要であるとみなすことは、是正するべき偏見であり、そして、差別である。


結論:小児性愛者は「悪」ではない

 今年2月公開の映画『バイバイ、ヴァンプ!』が、同性愛差別に当たるとして炎上、公開停止署名が行われたことを御存知だろうか。

 映画表現に対して、署名運動によって公開停止圧力をかけるという手法の是非はともかくとして、この署名の精神はとても重要なものを含んでいると思う。

 いかなる性愛も、それ自体は悪ではない。

 同性愛者も、小児性愛者も、ヴァンパイアではない。

 誰もが、自らの中の性愛のかたちを抱えて生きる、血の通った人間なのだ。そのことを私たちは思い返さなければならない。

 なお、本稿執筆より約2年前、石川氏も次のように述べている。

 この石川氏の言葉に、私は全面的に賛意を表明したい。

 規制派の視点から抜けているのは、小児性愛者という「弱者」「マイノリティ」の側に立つということだ。

 決して叶えることが許されない性愛のかたちを背負いながら、しかしそのほとんどの人々が、誰かを傷つけることなく、欲望と折り合いをつけながら生きている。

 小児性愛者だけではない。私たちは、誰しもが叶えたくても叶えられない、あるいは叶えることが許されない欲望をどこかに抱いているものだ。

 その欲望の最後の逃げ場として、空想がある。

 社会という器からこぼれ落ちた欲望を受け止めるセーフティネットとして、フィクションというものがある。

 そして、その欲望を受け止めるために、シリコン製の肉体をもって受肉した少女型ラブドールは、いわば零れ落ちた欲望にとっての救世主となる場合さえあるだろう。

 「児童の人権」という反論しがたい美辞麗句を並べ立て、踏みにじっているものはなにか。

 あなた方の足の下にいるのも人間であることを、今一度、思い出してみてはもらえないだろうか。

■ 参考記事


以上


青識亜論