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性的消費と「コンプレックス」について

 少しモヤモヤとすることがあったので、論点整理というほどのものではない小品だが、書きたい。

 この漫画がSNS上で賛否両論を呼んでいる。

 特に先入観なく読んだ私としては、「コンプレックスに思っていた自分の特徴を使って、大成功を収める」というよくある成長譚だなと感じた。わが国でも古くは一寸法師などをはじめとしてよくある物語類型だ。

 批判論があることに私は首を傾げたのだが、どうやらこういうことらしい。

 つまり、またしても、「性的消費」なのである。

 批判論を簡単に要約すると、

・ 巨乳がコンプレックスになる原因は性的な眼差しを向ける男性である

・ にもかかわらず、性的に見られることを職業とする「グラビアアイドル」という選択でコンプレックスが解消されるのは不自然

・ 男性がグラビアアイドルとして女性を消費することで、当該女性が救われるという神話を作り出している

・ しかも、巨乳女性への偏見を女性キャラ(同級生や母親)に喋らせることによって、「女の敵は女」という構造にし、根本原因である男性の性的消費を不可視化している

 なるほど、論理としてはわからなくはない。

 胸が原因で苦しんだ女性も多いのだろうし、不愉快な思いをしたケースの多くが、男性の視線や仕草、さらにはセクハラ的な行為に由来する、というのも事実であろう。

 しかし、この漫画には、男性の「視線」についてもしっかりと描写されている。

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 人にないような特徴がある人間は、奇異の目で見られるし、それがコンプレックスになるということは、私たちの社会ではしばしばある。特に外見的な特徴であればなおさらだ。身長の高低にはじまり、薄毛であったり、肥満体であったり、肌の色や声色、体格、等々。

 それは必ずしも悪意のある差別的なものばかりではなく、時に賞賛の言葉や賛嘆の視線であっても、当人にとってはコンプレックスを刺激するものとなることがある。「巨乳」の事例はまさにそうだ。

 そのことをこの漫画はしっかりと正面から書いている。

 逃げてもいなければ、男性への「免罪」を要請しているわけでもない。物語の主題はそこにはない。

 これは、主人公の葛藤をどのように「解決」するか、の物語なのだ。

 私たちの心から、外見や内面の特徴への関心を全て消し去るというのは不可能に近い。私たちは自己の身体的特徴と、その特徴に対して他者が寄せる関心を、所与の要件として受け入れるしかない。

 もちろん、セクハラになるような言葉や仕草、あるいは特徴でもって他者を差別したり辱しめるようなことは慎まれなければならない。そこは倫理やマナーとして、社会の側が変わっていくべきことだろう。

 だが、それでも、関心そのものは消えない。そして、ふとした折に垣間見える他者の内心こそが、主人公にとっての、そして現実の私たちにとっても、コンプレックスの種なのである。

 しかし、主人公はその葛藤をしっかりと見つめた上で、これを乗り越える。

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 「奇異の目で見られる」ことをコンプレックスとして抱え込むのではなく、それを武器として、多くの人に賞賛される「魅力」として捉え直すことで、克服する。

 それは、十分に一人の女性の主体的な決断であると言えるだろう。

 事例として、アメリカで「プラスサイズモデル」として活躍される、藤井美穂氏の言葉を紹介したい。

 でも、私は最初から自分に自信を持っていたわけではありません。日本では自分の体型に全く自信が持てず、ダイエットにトライしては挫折し、とにかく体型を隠す服を着る毎日でした。
 アメリカに来てからプラスサイズモデルの存在を知り、インスタグラムに自らの写真を投稿しはじめたのをきっかけに、いまの自信につなげていったのです。

 大柄でふくよかな体型がコンプレックスであった女性が、逆にそれを生かして、「プラスサイズモデル」として活躍する。それと、胸が大きい女性がグラビアアイドルとして活躍すること、そのどこが違うのだろうか?

 グラビアは「性的消費」だ、というのは、例によって消費という言葉に何もかもを詰め込んだだけの空虚な主張に過ぎない。

 確かに雑誌として販売されるという意味では、「消費財」の作成に関わっているとは言えるが、それならば自動車を作る仕事であろうが、ハンバーガーを作る仕事であろうが、同じである。

 しかもそれは、実に多くの人々を救う「消費」なのである。

 突出した外科手術の腕で多くの人を救う医者を、医療技術の消費だと評するだろうか。

 比類ない法律の知識で多くの紛争を解決する弁護士を、法律知識の消費だと評するだろうか。

 グラビアアイドルという職業もまた、他者と違う、磨き抜かれた容姿で多くの人々を救う、とても素敵な仕事である。

 消費、などと言って憐憫の情を向けられるいわれはないだろう。

 私は、この漫画を読んで「スイミー」を思い出した。群れのなかで一匹だけ黒い魚スイミー。その見た目をコンプレックスとして背負うのではなく、群れの魚たちと協力し、黒い外見を生かして、大きなマグロを追い払う。

 もし、スイミーの物語の中で、赤い魚たちがスイミーを追い出していたりとか、体を赤く染めさせていたならば、群れはきっとマグロに食べられて全滅していただろう。

 スイミーの物語はなにを私たちに教えてくれただろうか。

 私たちは、差異を消したり無視するのではなく、それぞれの多様性を生かして助け合うべきだ、という教訓ではなかっただろうか。

 一人の女性の主体的な生を描いた、この素敵な漫画に対しても、同じように優しい解釈がなされるよう、そう私は願うのである。



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