正しい「シーライオニング」のススメ
ネット上を「シーライオニング」という概念が駆け巡っている。
wikiの記事によると、「荒らしや嫌がらせの一類型であり、礼儀正しく誠実なふりを続けながら、相手に証拠をしつこく要求したり質問を繰り返したりすること」となっている。
学術的に定義がある概念ではなく、なにが「嫌がらせ」に当たるのかは判然としない。
白饅頭氏が当該記事で指摘しているように、異論者に貼り付ける便利なレッテルとして機能しつつあるようにも思われる。
そもそも、「シーライオニング」というしてネット上で名指されている行為は、嫌がらせであり、悪いことなのだろうか?
本稿では、ネット議論における「問い」の正しいやり方について、インターネットシーライオンこと私、青識亜論の考えを書いておこうと思う。
「シーライオニング」とはなにか
大元の出典に帰ろう。
さて、このアシカの行為は「不誠実な質問」だろうか。
この漫画では、女性はいっこうに応答していない。
主張に対して「エビデンス」を求めるのは全く当然のことであるし、批判をぶつけられた対象者が、批判者に「建設的な議論」を求めるのは当然だ。
「あっちへ行け」と追い払って無視するのはもちろん自由であるが、なんら応答せずに耳を塞いで無視するのは、異論者にまともに向き合っていないと言われても仕方がない。
明らかに、「不誠実」なのはこの漫画の女性の側なのである。
にもかかわらず、アシカの側が「不誠実」とみなされ、あげく嫌がらせ行為の代名詞にさえなってしまっているのだから、きっとアシカの皆様も御立腹であろう。
不機嫌な顔にもなる。
ただし、注意するべきことがある。翻訳者が訳としてあてた「アシカ(シーライオン)は無理」という発言は、日本語的には女性自身の好悪や愛憎の感情を述べたものであると思われる。
なにが個人的に好きだとか嫌いだとかは、議論の対象になるものではない。
それはあくまで個人の主観的な感情なのであって、正しいとか間違っているとか、善悪や正義不正義といった価値判断の対象になるものではないからだ。
これは稿を改めて論じたいと思うが、何かを嫌悪/欲望するのに理由はいらないし、審問されるべきでもない。
その点で言えば、アシカの執拗な問いは「余計なお世話」でしかない。
だが、現実に、ネット上で多くの「シーライオニング」の対象になっているのは、単なる個人的な好悪の感情の吐露ではない。
攻撃の対象に対して、「性搾取」や「差別」といった、社会正義や道徳観と直接接合する問題である。差別が不当であり、社会からなくすべきものであるとするのならば、そのレッテルを貼られたものは、不正義であり、無くさなければならないものとなる。
アシカは差別だ、なくせと言われたならば、アシカが不平の声を挙げるのは当然であろう。
原文では、冒頭の女性の発言は「I could do without sea lion.」となっている。直訳すれば、アシカはいなくてもいい、ぐらいの意味になるだろうか。
「I could do without ○○」の○○を他のものに入れ替えて考えてみたらどうだろうか。
私たちがかけがえのないものとして考えているシンボルや表現物、あるいは人や属性を入れたらどうだろうか。
このように不寛容な言葉をぶつけられながら、一生懸命に建設的な議論を呼びかけるアシカは、不誠実どころか、ほとんど誠実さのシンボルであると言っていいだろう。
私たちもこのアシカ氏のごとく、根気強く誠実でありたいものだ。
正しいシーライオニング、不誠実なシーライオニング
問うというのがいかに議論にとって重要か、ということはほとんど論を待たないのであるが、改めて考察してみよう。
その実例として、私は先日、次のようにツイートした。
これに対して、次のような提案があった。
この種の議論や批判において、第一手目に自らの主張ではなく、「問い」を置いたほうがよい理由は、私が考える限り二つある。
① 批判者の使っている用語の定義や主張の論理があいまいであること
「エロ匂わせ表現」にせよ「差別主義者」にせよ、その定義はきわめて曖昧である。いきなり「私は差別主義者ではない」とか「私が定義するエロ匂わせ表現は公共の場においてもかまわないものだ」とこちらから主張した場合、同じ差別とかエロという言葉を漠然と使っていても、両者が想像しているものがまったく異なっているということになりかねない。
さらに、この場合は論理も不明瞭であるため、論理的に反論するためには、「あなたが私のことを差別主義者だと言ったのは、○○という理由からであろうが、しかしそれは不当だ、なぜならば……」というように、相手の論理をこちら側で想像して組み立て、想像上の相手の主張に反論することになる。
これが完璧に相手の内心の論理を言い当てていれば話は早いが、私たちはエスパーではないから、往々にして勝手に相手の内心を想像して反論する藁人形論法に陥ってしまう。これは不誠実であるばかりではなく、相手に「私はそのようなことを言っていない」と否定する労を取らせてしまい、かえって不経済となってしまうのだ。
ならば、最初から「あなたが私のことを差別主義者だと思ったのはなぜですか、教えてください」と問うたほうがはるかに合理的であり、論敵に対しても誠実なのである。
② 「悪魔の証明」に陥りかねないこと
もし「あなたは差別主義者だ」に反論するために、「私が差別主義者で«ない≫理由」を探し始めたならば、その時点で悪魔の証明の罠にはまりつつあると言えるだろう。
もし、誰かを「差別主義者」などと批判する人がいたとしたら、まずは何をもって差別主義だとしたのかを、批判している当人が言うべきなのは当然である。
そうでなければ、私たちは負のイメージを持つレッテルを貼り放題になってしまう。誰か(何か)に対して負の印象を与える「○○である」を主張する人々は、その批判を受ける人々の「○○ではない」ことを説明するよりも先に、自らの主張の根拠を説明する道義上の責任がある。
アシカ氏が「アシカは犯罪の原因である」とか「アシカが差別を助長している」などと言われたならば、漫画のように、「アシカがあなたの言うようなマイナスの影響を与えるエビデンスはなんですか」と問うのは当然だし、むしろしっかりと問わなければならないのである。
それが建設的で前向きな議論の第一歩目だからだ。
さて。
シーライオニングの必要性についてはここまでで十分述べたかと思うが、では、「不誠実な」「嫌がらせとしての」シーライオニングとは何だろうか。
それは、ここまで述べたことの「逆」をやるようなシーライオニングのことである。つまり、
・ 好悪や愛憎などの個人の感情や嗜好に属することを問い立てる
→「しいたけが嫌いな理由」とか「萌え絵が好きな理由」みたいなものを問われても、答えようがないだろうし(好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとしか言えない)、答える必要もない。議論の対象になるべきものではないから当然だ。アシカ氏がもしも「あなたが私を嫌いな理由はなんですか」などと言って女性の家に押し掛けてきたのであれば、だいぶストーカーじみてくるだろう。
・ 妥当な根拠と論理が示された後にも、問いを無限ループさせる
→ 根拠や論理を問うための作業なのだから、それが明らかとなってもまだ問いや揚げ足取りを続けるのは、時間の無駄だ。速やかに自分がそれに同意をできない理由を提示するべきだろう。私はこれをチェスになぞらえ、『キングを置く』作業と呼んでいる。お互いが守りたい主張を十分確認できたならば、そこからはしっかりと相互に根拠を確認しあいながら、論を交わすフェーズになる。
・ 悪魔の証明を強要する
→ たまにいるのだが、「あなたが差別主義者ではないことを証明してください」とか「萌え絵を置いて良い理由(=置いてはいけない理由がないということ)はあるのか」といったような、本来的に「○○である」側が論証すべきことを、「○○ではない」側に押し付けるような問いを投げかける人がいる。これも議論としては無意味な行為にあたると言えるだろう。
議論する際にはこの三つをしっかり頭に入れておけばよいが、議論の後においては、次のようなこともなすべきではないと私は考える。
・ 持論を修正したり誤りを認めた相手に、執拗に問いを続ける
→ 議論というのはお互いの認識の溝をうめあう作業なのだから、それが終わった後に、相手をそれ以上追い詰める必要はない。「なぜあなたはそんな馬鹿げた主張をしたのですか」「もしかして馬鹿なのですか」のような問いは死者に鞭打つ不誠実なものだと言えるだろう。そして、ネット上では往々にして、そのような行為がおこなわれがちだ。それは、せっかく合意に至った議論の価値をいちじるしく貶めるものにほかならない。
なので、漫画の女性は、「私はただ単に個人的にアシカが嫌いなだけ」と言えばよかったし、もし「アシカが差別を助長する」のような無根拠なことを言ってしまったのであれば、「私が言ったことは間違いだった」と素直に認めればよかったのである。
気高いアシカ氏ならば、それでもなお女性を追い詰めるようなことは、きっとしなかったであろうから。
さあ、君もレッツ・シーライオニング!
私たちがもしも今の世界を変えようとするのならば、それはいつでも、絶対的な価値観に対して、疑問を投げかけるところからはじめるしかない。
世界に君臨する「常識」という王様の着衣が、実は全くの虚無であることを見抜き、「裸の王様」だと見抜くための魔力が、問いかけの言葉には含まれているのだ。
かつて、人類の哲学史の始まりには、一匹のシーライオンがいた。
そう、哲学者ソクラテスだ。
彼は、当時の社会で知者とされたソフィストたちに果敢に議論を挑んだ。
その方法論は「問答法(産婆法)」と言われる。自分たちは真実を知っていると主張する人々に対して、問いを重ねていくことによって、彼らの矛盾や無知を暴いていったのだ。
彼は、当時の社会の支配階層から疎まれ、やがて死罪に追い込まれる。
彼は逃げることなく、毒人参の杯を自らあおる。そして全身が麻痺し、死に至る最期の瞬間まで、弟子たちに思想を説き続けたのだという。
彼の死後も、彼が世界に向けて問い続けた言葉は消えなかった。
人が何かを知るとはなにか。美しいとはなにか。善とは。正義とは。
世界に問いを投げかけ、真剣に答える。その無限の積み重ねが、人類を進歩させてきたのである。これが、哲学の始まりであった。
もちろん、そのように偉大な先哲たちの足元にも及ばないだろうが、しかし、現代に生きる私たちもまた、その営為を先に進める一端を担ってはいるのである。
そういえば、このようなことを言う人がいた。
私ごときがシーライオニング(問答法)の権化とは、なんとも面はゆい限りである。まるで現代のソクラテスだと言われているようではないか。
(※ネット上にいるジョークの分からない面々に向けていちおう書いておくが、このセンテンスは冗談である)
ここまで語れば、今を生きる我々のやるべきことはもう明らかだろう。
ネットの大海に臆することなく泳ぎ出すのだ。私たちもまた、問いと答えの奔流をかきわけて進む、勇敢なるシーライオンなのだから。
この海には、「性的消費」だの、「累積的抑圧経験」だのという、透明な衣を身にまとった暴君たちがいくらでもいるのだ。
私たちは、大切な人や表現物を守るために、鋭く研ぎ澄ました問いの力をいかんなく振るい、そしてまた、異論者の問いに誠実に答えていこう。
その繰り返しが私たちの社会を作ってきたのであり、また、これからの社会を作るものにほかならないからだ。
だから、そう、レッツ・シーライオニング!
以上
青識亜論