【短編小説】幽霊養女

 私はいわゆる幽霊というやつだ。死んだときのことは覚えていないが、この状態になったときに立っていた道路脇に花が供えられていたことを思えば九分九厘事故で死んだのだろう。中学の制服を着ていることを考慮すると通学か下校の途中だったようだ。まあどうでもいいが。

 どうも生前の私は幽霊というものは(いるとすれば)未練ありきで存在するのだと漠然と思っていたのだが、別にそうでもないらしい。
 友人もおらず家族とも不仲な私はそれこそ”幽霊のように”と形容可能なほどこの世に居場所はなく、平日は学校の図書室に入りびたり、休日はあてもなく町を彷徨って日々を過ごしていた。
 となればただぶらつくしか出来ない現状も別にそう悪いものではなく、むしろ疲れず障壁もない幽体というのは誰もが羨むべき究極の特権なのかもしれない。私にかかれば汗一つかかずに秘境の絶景を眺められるし、STAFF ONLYと掲げられたあの現場を部外者ながらに覗くこともできる。更には女風呂だって侵入できるのだ。どうだ羨ましいだろう……いや最後のは生前でも入れたか、まあいい。
 つまり私は現状に満足しており、死んだことに不満なんぞないのだ。

 霊体になってからの私はせっかくだからこの身体(?)を生かそうと色々試してきたが、現在のマイブームはもっぱら他人への悪戯であった。
 強がってはいても所詮私も他者へ干渉したがる浅ましい群衆生物でしかないのだと感じ自嘲するが、本来はこの斜に構えた思想こそ恥じるべきなのかもしれない。

 日が暮れてから三~四時間くらいだろうか、腕時計は身に着けていなかったしスマホは轢かれた(であろう)ときに落としたのか持っていなかったので夜だということしかわからないが、それさえ分かればなんでもよかった。
 私は舌なめずりをし、「さあ恐れよ人間共よ。ここからは私の時間だ」と格好をつけて言うと標的にする家屋を探す。生前では考えられない解放感だ。

 別にちょっかいをかけるのは行きずりの通行人でもよいのだが、意外と夜道のほうがスルー率が高いというのは最近気づいたことだった。屋外の虫は無視出来ても屋内の虫は我慢ならないのと同じことなのだろう。
 そういうわけで空き巣のように品定めしながら住宅地を歩いていると、一軒の家に目が留まり私は足を止める。もっとも”歩いている”も”足を止める”も比喩なのだが。

 目を留めたのは少し古臭い風貌だが山吹色の優しい明かりが灯る家だった。理由など特にはない。しいて言うならただ一夜過ごすのに悪くはないと思っただけだった。
 「イケメンでも住んでれば儲けもんなんだけどな」と呟きながらチャイムを鳴らす。独り言は生前からの癖だった。

 十数秒したところでインターフォンから女の人の声が聞こえた。今にも消え入りそうな覇気のない声を聞いて、今夜はハズレだと確信する。この手の人は脅かしづらい。人情的に。
 彼女は応答を待っているようだったが、私には返事をすることが出来ない。私が生者に対して出来るアピールは精々、観測されていない状態での物体への干渉くらいなのだ。

 戸惑う声を無視して私はインターフォンを尻目に堂々と他人の家……浅海さん宅の敷地に踏み込み(比喩だが)、玄関をすり抜ける。
 壁をすり抜けられるならばチャイムを鳴らす意味は無いかと思うかもしれないが、どうも一度訪れた場所以外の建物に”所有者”がいる場合には彼らに応じてもらう必要があるらしい。
 所有者といってもこの場合は土地や建物の権利者ではなく、そこに長く……おそらく年単位で定住している人のことを便宜上私がそうよんでいるだけなのだが。
 とにかく経験上のルールとして行わなくてはならないのだ。私としてもこれからこれから起こす怪現象のジャブとして好んでいる節はある。

 私が居間へと侵入したときには例の女性はキッチンへと踵を返していた。どうも食器を洗っていた最中のようだ。
 想像していたよりは顔立ちは悪くない。むしろ造形だけ見れば美人の部類なのだろうが、酷く疲れた顔をして乱雑に髪をくくった姿は幸が薄そうと表現せざるをえなかった。
 同室内には夫と思われる男性もいた。こちらも若いころはモテていただろうと容易に想像できる顔立ちではあったが、妻と同様に疲れきっており険しい顔でパソコンの画面を眺めている。

 あまりに冷めきっている。第一印象はそれだった。
 死者である私に陰気な空気だとか思わせないでほしい。外の暖かな印象は何だったんだ。

 だが今さら他の家を狙うという選択肢は無かった。一度入った家で仕事(趣味)を遂行するというのは死んでからのマイルールであったし、マイルールに従うことは生前からのマイルールであった。
 それに私の茶々入れがこの冷めた夫婦の仲を取り持ったらそれはそれで痛快じゃないかという気持ちもある。
 逆に拗れようが私にとってはノーリスクだ。

 さてどうしてやろうかと部屋を見渡す。先程も言ったが私に出来るのは、”観測されていない状態での物体への干渉”くらいなものなのである。格好をつけて言ったが要は見られていなときに物を動かす程度のことなのだ。
 単純明快がゆえに幽霊としての力量が試される。

 少しばかり思案したところで手始めに棚の上に飾ってある白熊のぬいぐるみを落とすことに決めた私は、ぬいぐるみに手をかけてタイミングを見計らう。このままぬいぐるみを落としただけではこの夫婦のどちらかに置きなおされて終わりだからだ。
 二人の様子を観察する。旦那の方は依然パソコンの画面を食い入るように見つめている。この感じではしばらくは動かないだろう。対し奥さんの方は食器をちょうど洗い終え、食器を水切りカゴへと入れているところであった。
 私は奥さんが濡れた手をタオルで拭くところまで見届けると、ぬいぐるみの周囲に飾ってある小物を倒さないように気を付けながらも急いで柔らかな白熊を持ち上げ、旦那……浅海氏の背中へと投げつけた。

 彼の背中にバウンドして落ちた白熊は殆ど音を立てずに冷たいフローリングへと横たわると、抱き上げられるのを待っている。

 浅海氏の背に投げつけた理由は三つある。まず一つは普通にぬいぐるみを普通に落としても音が小さいため即座に気付かれない可能性があったこと、それではタイミングを計った意味がない。二つ目は少し離れた位置にいる彼に投げつけることで不可解さを演出するためだった。ぬいぐるみがひとりでに跳躍してきたうえに周囲の小物が微動だにしていないとなると、自分一人納得させる程度の理屈のつけようも無い筈だ。
 そして三つ目は先に彼に拾ってもらう必要があったことだ。皿洗い中の妻を尻目にチャイムを無視したようなやつが、背後で落ちたぬいぐるみを気に掛ける筈が無い。二人の会話を誘うには浅海氏が拾い、浅海夫人がそれを目撃する必要がある。

 私の思惑通り浅海氏はぬいぐるみを拾い上げ、キッチンから出てきた夫人が声を掛けた。だが浅海氏が言葉少なに状況を説明すると、すぐに二人とも神妙な顔で押し黙った。

 気まずい。だがひるまず次の手を打つ他なかった。二人の注意がそれている間にパソコンに向かう。画面には病院関連のページが開かれていたが気にしている暇は無い。慌てつつも音を立てないようゆっくりとキーを打ち込み、アドレスバーに「なかyくしてね」と入力するとENTERキーを慎重に押して文字列を確定する。そして今度は強くENTERキーを打ち込み、検索をかけると同時に二人にアピールをかける。
 oを入れずに不完全な表記にしたのはわざとだ。

 キーを叩く小気味良い音が響くと二人ともびくりと肩を震わせ、画面を注視した。するとただでさえ血色の悪かった顔から更に血の気が引き、死人のような青白い顔を浮かべる。浅海夫人は腰を抜かして座り込み、浅海氏は震える手で何処かへと電話を掛けた。

 ……いくらなんでも驚きすぎではないだろうか。
 確かにあり得ない現象を引き起こしてはいるが、別に敵意を向けたメッセージを残した訳ではない。小娘である生前の私ですらここまでは顔面蒼白にはならなかったことだろう。まあ鏡に映らないだけで今は同じ顔色かもしれないが。

 私の死後過去一で怯えている大人二人を悔悟半分呆れ半分でしばらく眺めていると、次第に自分が思い違いをしていたことに気が付いた。

 浅海氏が連絡を取った相手は霊媒師や心霊研究家の類ではなく病院だったのだ。
 この二人は別に冷め切った夫婦というわけではなかったし、最初から私になぞ怯えていなかったらしい。

 しばし彼らの会話を聞いて整理した状況はこうだ。
 二人の娘である渚ちゃんは一週間ほど前に交通事故に遭い意識不明の重体で入院しており、そして彼女を溺愛している両親は心労によりすっかり参ってしまっていた。そんな折このクソ悪霊が現れ、よりによって"チャイムを鳴らし"、"子供のころ大切にしていたぬいぐるみを動かし"、"夫婦の仲を取り持とうとした"のだ。彼らからすれば愛する我が子が亡くなって最後に会いに来たと思ってもなんらおかしくはないだろう。
 やってしまった。今度は悔悟の気持ち全開で彼らを眺めるしかなかった。

 幸い渚ちゃんが生きていることを確認した二人は安堵したのか幾分顔色は良くなったが、やはり疲労の色が濃い。
 もはやマイルールなど言ってはいられない。今すぐここを離れるべきだ。明日は映画館にでも行って全てを忘れよう。ちょうど最近好きな映画監督のコメディが放映中だと話題になっていた筈だ。
 そう決めて家を出ようとした瞬間、浅海夫人こと汐織さんの口から聞いてはいけない言葉を、荒唐無稽な仮説を聞いてしまった。後ろ髪を引かれてすぐに家を出なかったのが悔やまれる。

 どうも私は渚ちゃんの生霊が彼らに会いに来たと思われているらしい。


 逃げるタイミングを失った私は浅海夫婦の寝室に飾っている渚ちゃんの写真を眺めている。どの写真でも例外なく友人や親類と思われる人たちに囲まれている活発で利口そうな少女は、やはり例外なく屈託のない笑みを浮かべていた。
 日常の一部を切り取られ大切に保存された渚ちゃんの姿は、寝室に入る前に彼女の部屋を覗き見た際に感じた印象と変わらなかった。つまりは人に愛されるだけの素養を持つ人間。年の頃は同じくらいのようだが、私とは反対の性質の子のようだ。

 私が依然浅海家に居座り、勝手にブルーな気持ちになっているのには当然理由がある。「人の全ての行動には目的がある」とはアルフレッド・アドラー氏の言葉だっただろか?兎にも角にも亀にも毛にも、私にはすべきことが出来てしまったのだ。
 それは渚ちゃんが意識を取り戻すまで浅海夫人の相手をしてあげることだ。

 あのとき私のことを渚ちゃんの生霊や思念の類であると解釈した二人はそれを娘の回復の兆しだと考えたのだ。霊魂を飛ばせるほど衰弱しているのではなく、思念を飛ばせる程に回復しているのだと。
 なんともプラスシコーというかゴツゴーシュギというか。あまりに都合のよい解釈に私は苦笑いするしか無かったが、そうでも思い込まないともはや正気を保てないのだろう。
 そしてその解釈は幾分彼ら自身を慰めたようで、死人のように青白かった肌は赤みを取り戻していた。

 元々誤解ながらも彼らの仲を取り持とうとした私だ。当然お節介をかけることに不思議は無いだろう。
 だから決めたのだ。渚ちゃんが回復するまでは私が娘になってやるのだと。

 だって私にはノーリスクなのだから。


 簡単な事前調査を終えた私は翌日から娘として浅海夫妻への干渉を始める。見知らぬ他人の家庭とはいえ彼らの人となりや関係性を掴むのはそう難しい話ではなかった。
 浅海宅を我が物顔で探索すれば本人に面識が無くとも渚ちゃんの趣味嗜好は分かったし、浅海夫妻の話を盗み聞けば家族しか知らないような情報だって入手出来た。それに渚ちゃんは今時珍しく日記をつけるタイプのようだったので悪いとは思ったが拝見させてもらった。調査のためではなく好奇心に負けたせいだ。
 そしてそれらを元手に両親へちょっかいをかけてやればホット・リーディングの出来上がり。まるでインチキ占い師にでもなった気分だった。

 だがあまり頻繁かつ露骨にアクションを起こすのは逆効果だ。やろうと思えば彼らに美味しいご飯を作ってあげることも手編みのセーターを編んであげることも、涙がちょちょぎれ万感胸にせまる感動のお手紙を書くことだって可能だが、そんなことは死霊でも生霊でもイメージにないことだからだ。
 リアリティとは常に現実に即したことで生まれるものではない。イメージを守り演出を施すことで生まれることもある。
 だからキーボードの打ち込みだって誤字してギリなのだ。

 そういうわけで当初は物を動かして気配を作ったり、さり気なく渚ちゃんの私物が視界に入るように配置をしたりと地味なアプローチをかけていった。
 信頼を得るのは地道にコツコツ効果的に、だ。それはどんな関係でも変わらないことなのだろう。

 そんなことを続けているうちに、最初はなんだかんだ警戒していた彼らもいつの間にか完全に私の存在を当然のものとして話しかけてくるようになった。
 例えば渚ちゃんの部屋にあったバスケットボールを転がしてみれば嬉々として彼女の好きなバスケット選手の話を聞かせてくれ、その選手がテレビに出るからとテレビを点けてみると二人して熱心に応援しては的外れな場所に目をやり私(渚ちゃん)に語り掛けてきたし、女の子には珍しく本棚に昆虫図鑑があったので開いてみた際には渚ちゃんがカマキリの卵を家の中に持ち込んで惨劇が起こったという幽霊でも身の毛もよだつような思い出話を聞かされる事もあった。

 聞かされたのは渚ちゃんの趣味や思い出の話だけではなく、沙織さんからは昨日今日に出くわしたちょっとした出来事を聞くことも多かったし、浅海氏からは雑学などを聞かされることも多く、そういうときほど私は熱心に耳を傾けた。自分に向けられた話に思えたからだ。
 まあ最近ご近所に引っ越してきた家族の奥さんの一人称が自分の名前だったとか、最も毛深い動物はラッコであるなどの情報は私の人生にも霊生にも微塵も必要ではない情報ではあるのだが。

 私が浅海家に居候してからの期間はそう長いものではなかったが、既に私が実の両親から掛けられた言葉よりも多くの言葉を浅海夫婦から聞いた気がする。実質的に私に向けられた言葉は一つも無いことは分かっているが、少なくとも私は彼らに好感を持ってしまっている節があり。正直に言えば彼らには悪いが暫くはこのままの生活を送りたいと思っていた。 
 彼らの方だってきっとそうだ。私のおかげで当初の陰気さは薄れ、浅海家はいくらか明るさを取り戻しつつあった。誰も傷ついていないのだからもう少し家族ごっこをしていても許される筈だ。

 だが浅海家に憑りついて二週間ほど経ったころ、この生活はついに終わりを告げようとしていた。日課のお見舞いから帰ってきた沙織さんの話によると、渚ちゃんの脳波が安定してきたらしい。
 ただそれだけのこと。実際に意識を取り戻したというわけでもないのに浅海夫妻は私に見せたことの無いような笑みを浮かべていた。
 まったく御同慶の至りだ。


 翌日私は沙織さんに憑いて行く形で病院へと向かった。私が渚ちゃんの病室に入ったのは確か六回目だったと思う。

 沙織さんは毎日、浅海氏は土日だけお見舞い来ては延々と彼女に話しかけているが、毎度変わらず反応は微塵も見られていない。
 だが来るたびに変化が見られる点もある。ベッド脇に置かれた千羽鶴や寄せ書き、その他細々とした見舞い品が毎度増えているのだ。友人たちが置いて行った物らしい。
 過去六回のお見舞いのうち二回は渚ちゃんの友人らを見かけたことがあったが、皆感じが良く私とはまず縁の無いヒエラルキーに属する少年少女らであることは明白であった。

 視線を千羽鶴からベッドへ移すと、今日も今日とて沙織さんは渚ちゃんの手を握り話しかけていた。個室入院なこともあり彼女は毎度時間の許す限り言葉を紡ぎ続ける。毎度の光景ではあるが、脳波が安定していることもありいつもより言葉が熱を帯びているような気がする。話す内容には私きっかけで出たような話題もあった。

 日が落ちるころになると沙織さんは時計を一瞥し、渚ちゃんの頭を撫でながら別れの言葉を告げると病室をあとにしていった。

 今この部屋に残っているのは私と渚ちゃんだけだ。
 私はつい先程まで沙織さんのいた位置につくと渚ちゃんを見下ろした。
 包帯やギプス、ガーゼなどの処置がほぼ全身に施された痛ましい姿ではあるが、幸いにも顔には頬と額端にガーゼが貼り付けられているだけで酷い怪我は無さそうだった。仮に傷が残ったとしても元が良いのだから私よりは幾分マシな顔には違いないだろう。

 沙織さんが話していた姿を思い出す。
 これまでの人生で両親から貰った言葉よりも多く感じた二週間分の浅海夫妻の言葉。それよりも今日渚ちゃんに沙織さんから送られた言葉の方がずっと多く感じた。
 千羽鶴を眺め渚ちゃんの友人の姿を思い出す。
 返事も返せないのに何度もお見舞いに来てくれるような友達がいるというのはどんな気分なのだろうか。

 彼女になれればどんな気分なのだろうか。

 私はベッドの上に乗り、ゆっくりと彼女の身体に自分を重ねてゆく。
 大丈夫だ。両親のことはよく知っているし、友人たちの渾名も知っている。渚ちゃん自身のことだってよく知っている。

 バスケ部のスタメンで頼りにされていることを知っている。数学と英語は毎度赤点が近いことを知っている。昆虫に詳しくて男子にも一目置かれていることを知っている。好きな人の名前を書いた消しゴムを無くしてマジ凹みしたことを知っている。引っ込み思案な子に積極的に声を掛けることを知っている。拾った小銭をネコババしたことも知っている。弱った猫を保護して里親を探したことを知っている。レンジで卵を爆発させたことを知っている。迷子を交番に届けたことを知っている。

 私は君になれないことを知っている。

 私は彼女に重なるとそのまますり抜け、霊安室まで落ちていった。
 残念ながらこのまま地獄へは堕ちられないようだ。


 渚ちゃんが意識を取り戻したのはその翌朝のことだったそうだ。霊安室で一日中いじけていた私がそれを知ったのは更にその翌日のことだったので浅海親子の感動的な抱擁を見ることが出来なかったのだが、完全な部外者なのだからそもそも当然なことで別に惜しいとも思わなかった。

 それにそのおかげで痛々しい寝起きの様子を見ずに最初から元気な姿を拝むことが出来たのだから逆に良かったとも言える。
 まあ元気と言っても意識的なことであり満身創痍には違いないのだが。それでもリハビリを続ければ今まで通り動けるし退院の目処も立っているとのことだった。
 私は”他人”の小康に対してごく自然に胸を撫で下す。

 嬉しそうに浅海親子が会話している光景を眺めながら、もう自分の居場所がここには無いことを噛みしめる。いや、ずっと前からそんなものは無かったのだ。
 浅海家にじゃない。現世にだ。

 しかしまだ地獄に行く道筋は分からないので一先ず別府にでも旅行に行こうかと考える。地獄めぐりでもすればあの世への行き方が分かったりしないだろうか。
 そうだ、行きがけに例のコメディ映画を観るのを忘れないようにしなければ。公開してから二週間ちょっと経ったから上映数がそろそろ減り始める頃合いだ。

 そうと決まれば用は無しと、病室の窓から出ようとしたところではたと思う。渚ちゃんが意識を取り戻したところでポルターガイストを起こしたらどう思うだろうかと。

 彼らの、浅海夫妻の心のよりどころであった生霊説をあっさりと崩してやるのは案外愉快なのではないかと思ったのだ。
 いや、本当のところはこの期に及んで認知されたかったのかもしれない。或いは拒絶されたかったのかもしれない。

 理由はさておき善は急げと私は窓を掴む。三人とも互いに意識を向け合っているため窓辺に視線がいっていないことを確認して、窓を勢いよく開く。当然皆の視線は窓に集まった。
 そして一直線にベッドをすり抜けて目的の千羽鶴を掴むと、死角から渚ちゃんへと投げつけた。

 三人とも面食らって硬直する。渚ちゃんは混乱して短い言葉を吐きながら疑問符を並べ、慣れているはずの浅海夫妻も顔を強張らせている。
 予想外の事象が起きたときの人間はいつ見ても滑稽だった。

 だがその後の浅海氏の発言で驚くとアホ面を浮かべるのは幽霊であっても同じだというのを思い知らされることとなった。

 どうにも渚ちゃんには産まれるはずだった姉か兄がいて、水子ながらに渚ちゃんを助けてくれたんじゃないか。と名推理を披露したのだ。
 あまりに突飛な仮説に私はお口をあんぐりさせる他なかった。相変わらずおめでたい解釈をする方々だと呆れる。

 でもまあ、「いいか」とも思った。
 でもまあ、「可愛い妹のリハビリを応援するくらいは付き合ってもいいかもしれない。どうせ別府温泉は逃げやしないのだから」と。

 非科学的な憶測にすすり泣く大人たちと戸惑う少女が共存する馬鹿馬鹿しい光景を眺めながらもそんなことを思ったのは確かだ。

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