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仏説は存在しない①

今日は鎌倉に花見に行ってきました。午前中にざっと回っただけなのですが、かなりの人出でした。段葛の桜は満開からちょっと散り掛けくらい。まだ若い木なので以前のような迫力はないですが、上品にまとまっていて可愛らしい感じでした。

段葛の桜
源氏池

源氏池は人が多く、桜はあまり撮れなかったのですが、新緑が眩しく印象的でした。


さて、爽やかな写真とは裏腹にめちゃくちゃ不穏なタイトルをつけてしまいました。今回のテーマはかなりディープな話題で、お経と仏説についてです。

日本人にとって「お経」と言ったらお葬式で読まれる阿弥陀経や「南無妙法蓮華経」の題目でお馴染みの法華経、写経なんかで人気な短いお経である般若心経ですよね。これらは、近代仏教学的には後代の創作で歴史上の人物としてのゴータマブッダの思想を直接表現したものではないとされています。

ではブッダの思想を保存したお経はないのかというと、一応文献学的に一番古いとされていたのが、パーリ経典の中でも小部、日本人にも馴染みの深い『ブッダの言葉』ことスッタニパータの第四章と第五章などです。

相応部などにも同じくらい古いとされている資料がありますが、これらに共通するのは「韻文である」という点です。まず読誦目的で作られた韻文が最初にあり、それらを補完する形で散文の部分が徐々に付加され「教え」として編集整備されたという考え方が文献の見方としてあるわけです。

また韻文の資料が古いことの根拠として、そこに用いられた語句や文法が考古学的な資料の中でも最古のもの(と言っても紀元前のものはほとんどなく最大限遡っても1C)に近いというのがあります。

まぁ細かく説明し出すとキリがない話題ではあるのですが、ざっくり説明するとこんな感じです。一応考古学や文献学的に検証できる範囲においてはパーリ経典の一部が最古で、ブッダの言葉の原型を最も忠実に保存していると推察されるということになっています(私は学者ではないので、最新の研究はわかりませんが、これを覆すには考古学的な大発見が必要なので、そういうことはそうそう起こらないと思います)

そういう学問的なことを踏まえた上で、私は「ブッダが説いたこと」つまり仏説なるものを確定することにはあまり意味がないのではないかと思っています。それはそれほど難しい理屈ではありません。

ちょっと長くなりそうなので一度区切ります。

読んでいただきありがとうございました。

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