「終わらない週末」を生きろ

高校生の時分、遠足で宮島に行った。奈良市を想像してもらえれば分かりやすいだろう。そこと同様に、宮島では人間と鹿が共存している。その遠足にて、同級生が撮った写真の中に、私と鹿が写っているものがあった。鹿は、私が羽織っていたジャケット、バックプリントされたanarchy(無政府主義)という語に頬擦りをしていた……

ある家族は週末に別荘を借り、そこで過ごすことにする。しかし、訪れた近所のビーチではオイルタンカーが座礁し、別荘の庭には鹿の群れが現れ、夜になると家主と名乗る黒人男性と、その娘がやって来る。外部(少なくともそう思われる領域)から内部へ、なにか、よそ者がやって来る。その時、彼・彼女らは、あるいは私たちはこう思う。一体、ここは誰の家なのだろうか?

フラミンゴが別荘のプールに群居するシーン、または、テスラ車が自動運転により玉突き事故を演じるシーンに、本来的にフラミンゴの棲息地はそうであったかのような、人災と天災は等しかったかのような錯覚を覚える。自然は人工物から、そして人工物は自然から書き換えられる。そこにはダークエコロジーがある。

憶測が憶測を呼び、兆しだけが繰り返し、ひたすらに遅延される終わらない週末。陰謀は存在しない。ゆえに、どこにも辿り着けない。そのような物語の結末に、現代社会に対する革新的な解答は提出され得ない。しかし、〈私〉だけが助かる方法は、知ることができるかもしれない。

この記事が参加している募集

#映画感想文

68,930件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?