「道具主義、待てと!!、魔法少女にあこがれて」2024年1月16日の日記

いくつかの試験や課題が終わった。試験のために「知の探究」という哲学の講義のレジュメをぱらぱらと読んだ。デューイという哲学者の思想が自らの感覚にフィットした。

概念、理論、思想体系は道具である。すべての道具の場合と同じように、その価値は、それ自身のうちにあるのではなく、その使用の結果に現れる作業能力のうちにある。

ジョン・デューイ『哲学の改造』

日記なので孫引きですが、この「道具主義(実験主義)」の立場に共感できる。絶対的な一つのものさしがあるのではないという態度。また、彼は理論/実践という西洋哲学における伝統的な二元論の一つを否定したらしい。つまり、理論/実践は古代ギリシャにおける市民/奴隷に対応する。奴隷を下位に位置づけない態度はディドロっぽさもあるなと考えた。百科全書派などについても調べたい。

最近、インターネットフレンズの間で「待てと!!bot」というものが流行っている。これは、広島県と長崎県への原子爆弾投下がアメリカ国内では、ある種、高評価されているという事実について松本人志が感情的になっている音声を素材としたMAD動画群だ。私は広島市出身で頻繁に平和学習を受けていたが、原爆投下は負の歴史ではあるものの、そうなるしかなかったとも思う。私が真珠湾を訪れた経験からも、そう思うのかもしれない。だからか、松本人志の悪い意味での日本人っぽさは笑えるところがある。

アニメ「魔法少女にあこがれて」の第2話を観た。第1話も3回観た。いつ、本作についての評を書こうか迷っているので、暫定的なアイデアをここに書き残す。

主人公・柊うてなは魔法少女にあこがれるオタクだが、彼女自身は悪の組織の女幹部に適性があり、自らの推しと敵対することになる。うてなは推しと闘ううちに、あこがれていただけではなく、傷つく彼女らに興奮していたのではないかという自らのサディスティックな欲望を自覚するという物語だ。

「あこがれ Ver.」「超あこがれ Ver.」……「あこがれ」とは、なんだろうか。

太陽みたいにSunny/ピカリ輝いている
〔…〕
今はただ空を見上げる私の/心に芽生えた新しい力を信じるの

オープニング主題歌・NACHERRY「My dream girls」

アニメ「魔法少女にあこがれて」の画面にはよく太陽が映る。そこには光をまとった3人の魔法少女が共存する。プラトンは善のイデアを説明するために「太陽の比喩」を用いた。知覚の前提としての善のイデアは、可視界における視覚の前提としての太陽に対応する。しかし太陽は直視することができない。

うてなの趣味は魔法少女の「推し活」だと明言される。「推しの子」にしろ、「シャインポスト」にしろ、「スタァライト」にしろ、アイドルアニメ(ひとまず「アイドルアニメ」とする)は漏れなく「光」が最重要モチーフだろう。全くアニメを観ていない私だが、そう断言したい欲望がある。再び考える。「あこがれ」とは、なんだろうか。

「あこがれ」が「超あこがれ」になる時、日差しのような「規制」、「認識阻害」は消失するだろう。推しは、「あこがれ」は、光だ。光は光によって隠蔽されている。光が超光になる時、光は消失する。言葉で考えていると意味が分からなくなってくる。しかし、漠としたイメージとして、二つの光は、うてなの欲望の、あるいは、これを書いている私の欲望の二重性と関わっている。もしくは、「批評」という営みは、「あこがれ」を鞭で打たずにはいられないのかもしれない。そのような予感がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?