「倍速批評」2024年1月1日の日記

2023年、私が最も頻繁に呟いた語は「批評」だったらしい。批評の巧拙は措いておいて、「批評」について考えまくっていたのは私だろう。

去年は批評に関心があるひとと話す機会が多かったが、やはり「批評」という語を用いるのに抵抗感があるひとも少なくなかった。

実際は一次創作をやりたいと思っている書き手もちらほらいるようだった。

しかし、内なるホリエモンがこう言う。批評は楽しいからやるの!あるいは、Mr.批評・山田勝己がこう言う。俺には批評しかないんですよ。

小説というジャンルの独自性について、自由に視覚的イメージを持てると、しばしば語られる。正直に言って、私は小説を読んでも、あまり明瞭なイメージがわかない。しかし、批評を読めば、豊かなイメージがわいてくる。それは、なにか真実を受容できるということではない。実際はそんなことないのだが、全てが語れるような、全てが接続されるような、そんな気だけする。うまく言語化できないが、私はなにを読んでも、そうかもしれない。

『富江』を読んで、フェミニズム的知見から論じることは可能だし、必要な仕事だと考えられる。しかし、それ以前に受容されるのは、バラバラ死体、さらに細分化され、拡散し、復活する美少女、あるいは、femme fatale(運命・宿命の女)という語に含まれる「運命の出会い」的な意味と川上富江自体が負う運命、その二重性……

私は「浅く広く」という表現を用いるひとが嫌いだ。彼・彼女らは世界の広さをなめている。しかし、この批判とは無関係に、広いどころか、世界の全てのものは換言されたがっている。換喩されたがっている。そのような観念が私の内にはある。

映像系サブスクのプラットフォームは批評的かつ批評自体だなと思う。いくつかのものを並べることは批評的な操作の一つであると考えられるが、配信時期などで話題性を調整したり、異なる視聴環境を与えたり……正直に言って、サブスクに対して苦言を呈すことしかできない書き手の能力は疑わしい。素朴に享受するでもなく、批評の言葉で肯定的にも語られるべきだ。サブスクに限らず、そう思うものは少なくない。

最近、〈批評=陰謀論〉についてよく考えている。サブスクは、その前提な気がする。アクセス可能な事物が豊かに存在すること。違法視聴、ファスト映画や倍速視聴は無価値なものだと考えられている。あるいは例のアレコンテンツなど。

美少女ゲームや美少女アニメを論じる批評フレンズは少なくない。私は彼・彼女らのことが好きだが、お上品だなとも思う。私は許可されてないことも言いたいなと思う。

今年の個人的なキャッチフレーズは「倍速批評」にしたい。非同一なものも、一瞬にして連関する。宇野っちの「遅いインターネット」には共感しかないが、プチブルっぽさもある。しかし、ひたすら「加速」するでもない。「倍速」という大衆の速度を獲得したい。私のような大衆の。

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