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松茸はごちそうではない

 今朝も5時起き。生理前で体が岩のように重い。目覚めた時のしんどさは泣きたくなるほどだ。
 
 子供の頃の記憶だけれど、休みの日の朝に母が父に怒鳴られて、泣き顔を布団に突っ伏して嗚咽をこらえ起きてきたことがあった。生理だったのだろう、どんなにつらかったことか。
 そんなときに夫から「はやく飯を作れ。子供が腹をへらしてるじゃないか」と "道徳的" に責められるのだから、全く持って我が国の母親というのは日本国憲法上の合法の奴隷である。

 母は歳をとって、昔のことなど覚えていない。だが娘は違う。母親の痛みは共感力を通じて娘に感染し、悪性腫瘍のように増殖する。そのようにして父親は娘の人生をも奪う。私は幼少期からのあれもこれも、父親の、家族に対する理不尽な態度をまだはっきりと覚えている。いや、過去の問題ではない。父は今でもそういう人間だ。昭和生まれのおじさんというのは、女子供を利用することで「一人前の男」という立場を手にしてきたので、これはもうどうしようもない。彼らが変われるはずはないのである。自分は好きに酒を飲んでだらしなく生き、家族にその尻拭いをさせること、子供を怒鳴ること、殴ること、妻をレイプすること、これらはすべて彼らからすれば立派な家族サービスなのである。

 戦時中の田舎の村では「夜這い」という社会的システムが成り立っていた。戦場に出ている息子の妻であろうと、隣の家の奥さんであろうと、未亡人であろうと、友人の若い娘であろうと、誰彼かまわず夜中に押し入ってレイプしてしまうのである。そうやって女を暴力で支配し隷属させることで、人類(男)というのは社会をまとめてきたのだ。家畜同様、女には感情がないとされ、単なる男の所有物でしかなく、例えばある男の年取った母親が誰かにレイプされたなら、仕返しにそいつの母親をレイプするだけである。

「俺か俺以外か」というジョークに笑える若者がいることにぞっとする。「女を支配できる勝者は誰だ」という、すべては男社会の問題だ。この世に生まれてきたら、男かそれ以外(女や動物など)に分類され、女に人生の選択肢があるとすればそれは「どの男に支配されるか」ということのみである。その社会の仕組みは、私の父が変われないのと同様、何も変わっていない。結婚制度というのは男が合法的に女を隷属させ、その支配から逃げたら逃げたで女子供が路頭に迷い、どっちに転がろうとも生活を脅かされるという危ない法律だ。同性婚を認めるよりもまずは歪んだ結婚制度を廃止にしなくては、いつまでたってもフェアな社会は実現しない。男でも、女でも、子供でも、同性愛者でも、障がい者でも、どんな人種でも、この国に生まれついた誰もがその命を保証されなくてはならないはずである。結婚制度からあぶれた(男に隷属しない)者が、その報復と言わんばかりに生活を脅かされるような法律は、あってはならない。

(あるいは同性婚というシステムが導入されることで、これまでの結婚制度を全く新しく塗り替え、男性主体の闇社会をぶち壊す突破口になってゆくということはある、かも知れない) 
         
 どうであれ本当の法律というものは、その制度で自分が幸せになれるかどうかではなく、「そのせいで脅かされる者がいないかどうか」ということが大事である。冷静にならなくてはいけない。

 ーーすっかり憂鬱な日だ。小雨の中を散歩する。産直で、大根の葉と豆腐とサツマイモを買う。これで300円。ありがたい。いつもより混雑していたので何事かと思ったら、今日は月曜だけど祝日のようである。
 あまり雨に濡れないうちに帰ってきて、おやつにサツマイモを蒸かす。ふと、レジで私の前にいた男性客が小さな松茸を買っていたのを思い出す。子供の親指ほどの大きさの物が3本。2000円というその値段より「あの人、松茸だけ買って帰ってどうするんだろう」と考える。

 女はああいう買い方をしない。松茸を買うにしたって、食事をするには他の食材も必要である。
 釣った魚とか、拾った山菜とか、もらった饅頭とか、見栄で買った松茸とか、男は考えなしにまるで戦利品のように何かを持って帰ってくるが、それを女に押し付けて、あとは酒を飲んでいればごちそうが出来上がると信じている。だが松茸はごちそうではない。松茸をごちそうたらしめるのは松茸以外の食材である。大根や白菜や芋や豆腐や米やらである。

 ーー憂鬱な日だ。
「男ってなんであんなにバカなの?」とか、私はお上品だから言わない。

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